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なんだか雲やら幻想を見せられた気がして朱鷺貴は宙を眺めて考える。
しかし思い至った。
これは言わば義経《よしつね》の“鵯《ひよどり》越の逆落とし”。日本人にはこの発想の方がわかりやすいかもしれないなと、我ながら良い例えに巡り会えたところで扉が開いた。
翡翠が「あら」と、水浴びから帰ってきた。そして言う、「寒い」と。
当たり前だわ馬鹿野郎。
確かにこいつには理解出来なんだなと朱鷺貴は溜め息を殺した。
しかし濡れた髪のままに翡翠は朱鷺貴の側に座り、「あぁ、佐久間先生の」と、つまらなそうに書を眺めて言うのだった。
「わかりました?わてが言うてたん」
「んー…。
まぁこの火薬調合だとかは蘭法医学らしいというか…」
「そーですねぇ。
鉄を浮かすあたりも近代科学というべきか…平賀源内《ひらがげんない》の“ゐれきせゑりていと《えれきせえりていと》”のような発想やね。佐久間先生はそんで地震予測が出来るらしいですえ」
「は?」
「せやろ?は?やろ?」
「いや、だからって女と遊んできて良いとは誰も言ってねぇし、何?えれなんたらって。地学的なやつ?」
「電気ですよ」
「はぁ…ん?」
「いや、ゐれきせゑりていとよりは地学寄りやろうけど」
「…お前なんでよくわからんのを知って通じて、そんなにつまらなかったの?」
「んーまぁ…」
足元をふと眺める項に張りがある。若いのにどうしてこんなに欲がないのか。普通こんなようわからんが凄いらしい学、若い方が興味を持つだろうに。
「人柄ですかね。なんや、自分を“神の子”言う、坊さんみたいな人、嫌いやねん」
「お前真っ向から普通俺に言うかそれ」
「んー…。あんさんはもう少し凡庸やん」
ぐさっ。
何こいつ。
物凄く悪意なく人を傷付けてくるんですけど。
いや、別に己を特別な人間だと思ったことはないけれども。
「実際の坊さんなんて皆人やろ。それをあの人は、
なんや、ただただ牢に入った犬のようなもんやろ」
「うわぁ…」
なんでお前みたいなやつが蘭法医学なんぞ学んだねん。
「せやけどあんさんは、」
ふと翡翠は、朱鷺貴の予想よりは強気ではなく、むしろ少しの不安が見て取れる上目遣いで朱鷺貴を眺めた。
「己の芯の思考を左右されるような坊さんですか?」
「…どうだろうな」
まぁ。
言いたいことはわかった。
朱鷺貴は書を閉じ、翡翠に渡した。
爽やかに目を閉じては悟りを開いたかのような低音で言う、「あの小姓に返しておけ」と。
「俺にはさっぱりわからなかった」
「ぷはっ、」
翡翠は吹き出し、腹を抱える。
腹が痛いわけではなく。
「逢仏殺仏、逢祖殺祖という、偉い坊さんの禅の教えがある。
一見仏教では反感を買いそうな教えと言う者もいるが、実際は違うと俺は解釈する。
要するにこれは“神を作ったのも人だ。いずれ全てを捨て己を貫け”と言うものではないか、と解釈する。神にすがっては光には辿り着かないと、そう思う」
「…自分は神と同等ですか?」
「わからんな。何せ神を見たことがない。そんな幻想すら捨てて初めて教は始まる。
その佐久間先生言う人も、そうかもな。だから自分の中の知識と向き合うんだろうが、別にそれは神ではないよ」
「なるほどねぇ」
今度はにやりと、艶やかに、しかし悪戯小僧のような幼さも残るにやつきで強く翡翠は朱鷺貴を見つめる。
朱鷺貴は変わらず無愛想だ。口を開く翡翠はそんな朱鷺貴に一言、「おもんない人!」と言うが、言葉の癖に従者は堪えきれずに笑った。
「あんさんのそんなとこ、好きですえ」
「あっそう」
「大分…、あんな西洋被れよかぁ、為になりました」
「褒めてるのかそれ」
「一応、一応…」
笑ってる。
わりと真剣に説いたというのにこの従者、罰当たりなやつめと、
朱鷺貴は不貞腐れ、翡翠に背を向けて横に寝転び、「寝るわ、阿保!」と言い放ち目を閉じた。
何も言わずに翡翠がすり寄ってきたのがわかる。非常に気まずいなと思いつつも、
「お疲れあそばせ。おやすみなさいね」
耳元で聞こえたのには思考を遮断した。「ひっひっひ」とからかう笑いもある。いい。こいつはそういうやつなんだと朱鷺貴は意識を手放した。
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