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運転席に座って陽に手を出せば、怯えたような、不安なような、ただただ子供の目なのだから仕方のない、緩く守られた左手首を取ってリストバンドに指を入れる。
これは陽の証なんだ、消えかけている傷は1、2と新たなものはいまないけれど、今夜にもここに傷が増えるのだろうか。悠、だから先生のところに早く行きましょうとでも言うように。
「…先生、」
「痛かったでしょう、陽」
いつでも泣きそうな悠の手首を掴んで引っ張ってつれてきたあの頃の陽は「せんせっ!」だなんて無邪気だった。
大人になるということはどうして切ないのだろうね陽。俺はあの頃の無邪気な君に聞いてみたいと、怯えた頭を抱えて額に軽くキスをする。
それも大丈夫なのだろうかとぼんやり、何故だか浮かんでくるのは動かなくなった陽に跨がって狂ったように泣き喚いた…、
あぁ…、
「先生、どうしたの…?」
ほっとした。
しかし同時に悲しくなった。悠が出てくるか来ないかの賭けは今、俺が勝ったようだから。
「…ちょっと昔を思い出してさ。やっぱり悠は、どうしてるかなって」
「…ちゃんと、お母さんたちのところにいるの?」
「どうして?」
どうして不安なんだろうか、悠、いま君は本当に寝てしまっているようだな。
「いや、なんだか…」と俯く陽にドキッとした。そう、そんなものはとうの昔に君たちから離れたのだと知っているのは悠だけだ。
意識が混在しているのか。
それとも陽が何か、それが揺らぐ情報を手に入れたのか勘付いてきているのか。
『陽が俺を食ってるんだよ』
ふいに先日のそれを思い出した。
「…陽、」
「…えいちゃん」
「陽はここにちゃんといるよ。不安にならないで。もう少しよくならないと悠には会わせられない」
「先生、」
「陽、」
「先生。だから私は悠に会えないの、ねぇ、」
壊れてしまうのは早い。
ダッシュボードから咄嗟に出した薬は処方用にさっき、キープしておいたサインバルタで、俺は口に2錠も含んで陽の口を塞ぎたいと口移しした。思いは溢れて頭を乱すけど、すぐに飲み込んでくれたのにそうか、今は陽じゃないかと、考えたのだから舌を絡めてしまう。
本当に悠が出てきてしまうかもしれないのに、俺は陽への欲を捨てきれてない。
だが絡め返されることがなくて違和感を感じた。そうか、陽だからだと離れてみれば陽が唖然としている。
「えいちゃん…あの…」
「は、陽…?」
「え、」
しまいには俯いたのだから「陽…?」と不安になってしまうほどに。
悠がいないのか、今。
「ご…めん、えっと」
『貴方のせいよね、照井先生』
8歳の悠は8歳の陽に跨がって、手首の血が滲み拳は指がめり込むくらい握られていて、
「あの…ごめん陽、悠は薬を飲まない悪い子だから」
急にぐしゃっと、
21歳になった偽りの陽の顔が歪んで涙を流すのに、あの8歳の日の悠の泣き顔が完全にフラッシュバックした。
「陽、泣くなよ陽、」
涙を拭い始めた悠に俺はいたたまれなくなり、そのまま車を発進させた。
「すぐに効くから」と頭を撫でても「えいちゃんん……、」と悠は戻ってこない。
いや、これは悠の復讐かもしれないと俺だってずっと思っている。
「…陽は何も覚えていないんだね」
急に切なくなってきて、俺まで不安に胸がそわそわする。
俺が犯した罪は未だに継続中だ。
「何が食べたい?」も「食欲あるかい?」も固有名詞は消え去った。
何がいいかの返答もないので「雑炊みたいなやつにしよっか」と提案する。
「胃にも優しいし」
俺は君たちを守ることが出来ないかもしれない。
いや、多分しないんだ。ずっと、どこにいるんだいとさ迷って、探していて、まだ掴めない君たちなんて俺には未知数なんだと逃げ腰になる。
本当は手を伸ばせるのかもしれないけど、これが帰ってこないとわかっている。陽、そう。俺が君を引っ張っている、だけ。
過去に思いを馳せても自己満足でしかないから、「田辺くんはいいヤツなんだね」なんて、無駄な話をするばかりで。
俯いたままの陽はそれから家まで話さなかった。
『ねぇ先生、先生』
と嬉しそうだった君に泣き黒子があったか、曖昧。だけどそう、ずっと俺だってそれを拾ってあげる。
女の子の君、男の子の君。
まずは君たちが活動をしなくなるまで。
心配だったのもあり、その日は陽と同じベットで眠ったのに、いつの間にか傷が増えていた。いまだ眠り続ける悠へ、気付かないでと俺は、目を閉じる。
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