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 帰宅をしても悠は家にいなかった。

 却って、あんなことを言わなければよかった。彼は引っ込み思案で、そして人の感情に機密に作用し精密に壊れていく。

 社会不適合な上、自分勝手だ。しかし当人は気付いていない、それは、世界を愛しすぎるから起こる発作なのだということを。
 優しさを知らないから、過剰摂取してしまう。全てを自分に閉じ込め、自傷する。

 優しさを知らないままに育ったような俺には化学反応でしかない。俺はそこまで人を愛し世界を見つめたことはなかった。
 なのにどうしてこうも、年も離れているからなのか、どうしてこうも違うのだろう。俺も自分勝手だけれど、あぁやって傷付けるほどにお人好しではない。

 まわりがそれにどれだけ傷つくかなんて、籠っているからわからないんだ。

 …この結論は何に対し、誰に宛てる論なのだろうか。
 堪らなく不安で、痺れるようにいま、答えが欲しくなる。それは衝動的な一過性の焦燥につき、俺は鞄も置かず着替えもせずに暗い悠の部屋に侵入していた。

 天文系の壁紙と悠の、元の家から持ち出した150倍レンズの屈折式天体望遠鏡。
 ここには悠の生きる雰囲気が充満しているのに、望遠鏡の横にはキャンバスすら飾られないイーゼルがある。まるで陽の脱け殻のようだと感じた。

 それだけで様々な感情、けして陽気ではないものばかりが押し寄せ、不覚にも目頭が痺れるように痛くなる。初めてだ。見慣れているはずの俺の家の悠の部屋に、どうしてこんな、衝撃を受けるのだろうか。

 …と、不意に真横の勉強机が目に入る。
 先日開かなかった2番目の引き出しが開けっぱなしで、使い古してあるだろう、恐らくは錆びかけた、カッターナイフだけが入っている。
 …テーブルの上には、いつの日か陽と作ったペーパークラフトの国立天文台があって…少し使われた形跡のある大学ノートが置いてあった。

 ペーパークラフトは考えてみればずっとここにあったような気がする。意識を掠めなかったのに、何故こうして「あいつ、取っておいたんだ」と感慨深くなるのだろう、その暖かい感情にカッターナイフがある、傷もたまに増えるしわかっていたけどいつから、だとか、そんな感情でぐちゃぐちゃになる。

 何か考えると言う考えが両極端に破壊され、俺はノートを手にしていた。

 悠の、日記だった。
 あぁ、それで。
 なるほど、ハルはそれにイラストと…これは茶色の色鉛筆ではない、もしかして傷の血を、返信としているのか…?

 自転、公転、日食、月食……数字はまばらだ、これはなんだろう。その他、恐らくは天文の専門用語かな…超大質量ブラックホールの強大な潮汐力(潮の満ち引き)により、近付きすぎた恒星を裂きバラバラにすること。

 ハルにもわかっていない記号。これは悠が、何かをメモしているということか…デ→サ?もしかして、薬?デ1s…まさか、デパス1シート摂取しただなんて、言わないよな、どこからそんな…。
 2日。
 
 見えてきた…。いつ書いたか、多分今日だとしたら2日。悠はハルだった。

 もしも当たっていれば悠は、思っていたよりも意識がハッキリしている、じゃぁ、陽を殺した夢、これってフラッシュバックだと思っていた、が、悠はそれほど曖昧には捉えていないとしたら…。

 悠は今一体どこにいるのだろう。
 不安が一気に加速し電話を掛けていた。

 コール中も「自転、公転、日食、月食」と頭を巡る。自転は物質自体の回転、公転は物質の回りで、日食は太陽を……。

『何』

 悠だ。
 例えば、陽が死んでいる事実を認識したら悠は、どうなるのだろうか。

 至極冷静を務め「悠?」と聞くことが、もしかしたらわざとらしいのかもしれないが、声自体は平坦に取り扱えたと思う。

『そうだけど』
「……いま、どこ?」
『…場所ならちゃんとわかってるよ。ちょっとコンビニ行っただけ、もう家付く。飲み物くらいさ、』
「ごめん、」

 至極冷静、いつも通りな対応だと思っているのに『あぁ、なぁんだ』と悠は笑った。

『バレた?うん、大学行った』

 この子供は他人の機密な感情の変化を読み取ってしまう。

「……大丈夫だったの、ねぇ、」

 バレたなら急に焦燥からの怒りが漏れていくように「ダメだって言ったよね」だなんて、言ってしまう。

『軟禁されるのはごめんなんだよ。大丈夫だよ具合も良好だしもう行かねぇから』

 ……は?

「…何言ってるかわかんないんだけど」
『大学。もう興味ない。ちゃんと家に』
「そんなこと言ってるんじゃないんだよ、なぁ…っ!」

 あぁ、
 悠が電話越しにビクッと驚いた姿すら目に浮かぶようなのに。なんで怒鳴る。

 沈黙した。

 俺は息を吐き散らかし「…ごめんって、」と噛み殺すように伝える。

「……とにかく迎えに行くいまどこにいるの」
『……ちゃんとエレベーター、乗ってる、家の』
「どっち、」
『…もう本当につく』
「……わかった。怒鳴ってごめん」

 脱力して電話を切ったか、わからないが降ろし、家の前のドアで待っていることにする。

 違う、違うのに俺はどうしてこんなに頭のおかしいことしてんだ。これでは虐待と変わりがない、恫喝している。
 どこまでも自分勝手で、でも咄嗟ならこれが俺の本質だ。俺だって大分病気だよ、こんなのおかしいじゃないかと、頭の隅でぼんやりしながら悠を待っている。

 立っていられなくなった。

 わかる気がする、自転公転。どこか周回軌道で当たり前に自分を遠くから眺めている、剥離感がある。多分これは、精神的に結構来てるときのやつだ。

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