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『…まだ』
「そうか、まぁ、よかったね」
『…楓は、それからその…』
「あぁ、うんそうだよ」
母との間に沈黙が出来た。
その隙に楓は真麻へ微笑み掛ける。
『そっか、楓、』
「ん?」
『まぁお母さんも安心しちゃった』
「…そう?」
『うん。あぁ、そうかって』
自分の病室で母は受け止められなかったかもしれない。
高校生の頃の母は。
覚えていない。だけど悲しい気がしている。
『…だって、なんだか迷いがないんだもん』
「…そうだね」
『…出来ればまたいつか帰ってきて欲しいだなんて、言っちゃっても良いかな…お母さんは、あの子を…あんまり顔は思い出せないけど、大丈夫そうならって…』
「…聞いてみるけど、俺は大丈夫なのかな」
『家はまぁ、楓はお母さんの子だから』
「…聞いてみるね。
母さん、じゃぁ今は暇でしょ。まぁ昼ならいつでも掛けてきて。出れるかわからないけど。
じゃぁ、また」
『…うん、またね、楓』
通話を切って、楓は何故だかポンとケータイを投げてしまった。
これでひとつ、切れなかった糸はぷつんと切れてしまったような、気がしたのだ。
「はは…っ、母さん結婚したってさ」
楓に嘲笑のような、諦めのような、とにかくセンチメンタルなもんだと真麻はその楓の額に手を置いた。
「よかったじゃん」
「そうだね、よかったよ」
天井を向いた、楓は何かを考えているように見えた。
真麻の掌を首筋に当てるのは楓の癖だ。心地よい、脈拍のような楓の呼吸を手に、感じる。
それは楓の気持ちと呼吸により真麻には暖かさが違うと、いつも思うのだ。
あの日の楓の母はきっと、混乱していたのだろうと真麻は思う。
当たり前だ。楓は恐らく全てを捨てる気だったのだから。
「…お母さんは、」
「なかなか結婚しなかった、いや、出来なかったんだよね、俺が高校出て…お金貯めたのかもね」
遮られた言葉に自分が今楓から聞こうとしたものの答えがない。
俺は一度くらいなら行っても良い気がするよと。
あの病院でごめんとしか言わなかった楓と混乱した楓の母が思い浮かぶ。あの時の「何言ってるの」はきっと、楓の母は理解出来なかったのだろうと真麻にはわかるけれども。真麻も曖昧に返してしまったくらいのリアリティーな雰囲気だったのに、実際二人は会ったばかりだった、両者共に。
いずれわかってしまうだろうと、わかってしまった結果を考えれば、少しくらい自分が軽蔑された方が、そこで切れてしまうのも運命だし、まだ傷は浅く感じるだろうという、一瞬の複雑な予防線だったと真麻は振り返る。楓の母と自分の想った相手は同じだったから、それはストレートにこちらへ投げられてしまった。
そう、解釈する。それくらいには大人になったはずだ。
だから楓が俺に隠そうとするのなら、それ以上踏み入るのは楓を踏み散らかすことになる、待つしかない、聞こえた話を。
「家、そんなに裕福でもなかったから」
「…そう、」
「真麻の家は?」
「ん?」
「兄弟や親や…」
楓は少し黙り、溜め息を吐いた。
「…また後で聞こうかな、時間とか」
「そうだなぁ」
この息苦しさを甘くしたいと、真麻は楓の額にキスをして「俺も一人っ子」と語り掛ける。
「親とはそれほど仲も良くなくて、」
額から鼻筋と、それから唇が触れる。それを、絡めたのは楓の方だった。
ただ寂しかっただけなんだよ、ただ寂しかっただけなんだろ?と少し混じって髪に触れて。
真麻の髪は少し固いけど、楓の髪は少し柔らかい。
ただそれだけだった。
「だから、少し羨ましいよ、楓ん家」
「…そう…かもしれないね」
我慢も出来ずに真麻は「女の子じゃないかな」と、楓に微笑んだ。
「きっと可愛いよ」
「…そうかも、」
「29歳差かな、ははっ。お母さん、ちょっと大変かもね」
「…仕事はいいの」
「もうちょっと。あと3分。
…お母さん、確か若かったような」
「よかったらおいでって、言ってたよマーサ」
知ってるよ。
真麻はそんな恋人の頭を撫で「一回くらい行っても良いよ?」と答えた。
「楓が嫌じゃなければ」
「そんな、そんなことないよ」
「あらそう。じゃぁ帰ってきたら考えようか」
手を離して「多分3分」と真麻は離れる。
「ちょっくら行ってくるわ。遅かったら寝ちゃっても良いよ」
「…今日は親子丼だから」
「あー卵が難しいんだっけ。うーんちょっとだけ遅いかも」
「3分。さっさと帰ってきて」
「わかったわかった。じゃね、行ってくるよ」
「ん。いってらっしゃい」
何故だか起き上がる気はしないけど。
玄関まで。
真麻のポケットから、イヤホンが伸びて耳につけたのを見送る。楓はその微妙に辛い体勢からまた仰向けに戻り、白い、天井を見上げた。
俺は真麻に悪いことをしている気がする。
真麻はきっと、自分に出会わなければストレートだったと、思う。
出会ってその場所も、なんの抵抗もなく寝てしまったことも、自分でなくてもつまりは真麻はこちらへ進んだのかもしれないけど。だけどすぐに母親は真麻も自分も、結果否定したのだ。
額に腕を当て視界が狭くなったその白い天井は狭さ故か、「ごめんなさい」としか言えなかった病院のベッドを、思い出す。
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