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 「楓ぇ…!」と自分の横でシーツを掴んで「どうして、どうして!」と言った母の姿が、酒と散らばった薬剤のシートに錯乱してテーブルへ突っ伏していた見慣れそうな景色のそれと重なって見えたことにぶわっと、心の不安定に広がった、それは麻酔のような麻痺で、ただ神経に嘘を吐いて自分を殺しにかかっているだけだ、そのセンチメンタルな虚無感を楓は思い出す。

 母の悪癖が酷くなってきたとき、いつからか中学生くらいの自分は後ろに立つばかりで、母さん、母さん、が押し殺されて水を飲ませなければ、起こさなければ、が血肉に巡っていたのだ。
 
 天井の白と同じ。
 あぁ、と冷蔵庫から水を取り出そうとした少年の手が視界に入るようだ、翳したその手は年を重ねたか覚えていないのに微かに震えている。濁ってボケた視界。それは無彩色だ、そうやって麻痺していく寒さのうちに、楓の前頭葉は「薬を飲まなければ」と掠めていく。だけど起きる気が起きない。

 冷蔵庫に手を伸ばした少年がある日、「はっ…」と、声が出そう、それから鳥肌が立ちそう歯が鳴りそう叫びが漏れそうだと己を客観視したときのサイレンは、年数がありぼやけているのだ。何年後の未来から君を見ているのだろう、あのとき俺はとなる前に、あぁ、真麻に悪いことをしたなと戻してみる。俺は本当にろくでもない。目を、閉じて聞く。

 自分が机の前の錠剤を目にしたとき、「あの母さんの背中」はぼんやりと目に浮かんだが無彩色に濁っていた。から、ぷちぷち何錠も何種類も考えなかった。

 病院で目覚めた高校生の天井は白く、でも無彩色にぼやけていた。

「初めまして、百合さんの恋人です」

 と名乗ったまさゆきさんに、糸が切れた気がして錯乱した、感情も筋肉も神経もいらないまま涙が流れて。
 そうやって流星の屑がしばらく降り積もる。

 寒かった、真麻に出会った日の空。星なんてわかるほど視界はクリアじゃない、母の帰りを待つように、預けられた日の中で見た流星群は綺麗で感動したのに3時間、疲れたなぁと暖まったはずの心に「そうか誰も探しに来なかったんだ」と親戚家の家の前で鼻の痛さを感じて、肺に寒さは刺さるようだ、綺麗な空気の夜には、と。

 夜の闇のような視界に「僕はどこにいればいいんだろう」と、透明になれた流星は、彼方にあるのだと感じた。
 「…皆と上手くいってないの…?」と帰宅した母はドアの前に立ち尽くした楓に言ったのに、表情筋は寒かった、「大丈夫だよ」と言う返答が震えていた。多分、頬は赤かったと思う。

 「弥生やよいの服着てみろよ」と親戚の兄の方に服を脱がされて泣いて出てきた。
 お母さん、今日は流星群なんだよ。そう、お母さんと見たいから早く帰ろうよ。
 何も出ていきやしない。

 目の前がぼんやりと開く。

 僕は時々、泣いてしまいそうになるんだよ。

 どうしようもない衝動と穴が開いた記憶に、こんなもの誰かが食べちゃえばいいのにと楓は思う。歯が鳴りそうで、食い縛るしかなく、ふらっと現れたセンチメンタルは細胞を殺していくようにゆっくり麻痺を解くようだ。真麻に…悪いことをした、したけど悪いといま、思いたくない。

 夢なんてやっぱり見たくない、景色のなかを駆け巡り続けてしまう。繰り返し、繰り返し、その灰色を。

 漸く楓は引き出しから、レンドルミンを引き出した。麻酔をくれ、だけどそれで押し出ようとする叫びに息を荒げる。

 ふーっ…くぅっ、ふーっ。

 ダルく痺れる。暫くそうしたが、息を立て直せば「水も飲まなければ」に至る。手にわからないまま錠剤のシートを握り、冷蔵庫からペットボトルを掴んで、ソファで寝転ぶ。

 こんなもので存在は掴みたくないけど眠らせてくれ。

 だがダルい。素直に1錠だけ服用し、眠れ、眠れと息を殺した。

 どれだけそうしても、寝れる時間も寝れる条件も安定はしないが、いつの間に寝てしまい、夕方に楓は目覚めた。

 ぼやけるのに親子丼を作ろう、これだけはふわっと頭に浮いた。動けるときになんかやろ、何もかも好きな色で塗りたくってしまいたい。
 ぼんやり、頭痛に気が遠い。

 時々ふと、なんだか遠くに引き寄せられ、ふらっと急速に1点から放射状に、死にたくなることくらいあるものだ。それは寒くて少し、悲しい。

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