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 この場に母がいる、自分の近くに母がいるという現実に、楓はまるで夢の中で溺れているような感覚だった。

 今日見た夢はなんだっただろうか。どこか切ない余韻で、母が出てきた気がするのだけど覚えていない。θ波の景色はいつもこうして色褪せている。

「楓もこうして産まれてきたのよ」

 母の優しい声が、耳の奥から腹の底に落ちるように響く。
 楓は曖昧に微笑むのだが、真麻は「何ヵ月なんですか?」と平常に訪ねていた。さっきまでの緊張など微塵もなく、いつも通りに優しい。

「ふふふ、6ヶ月」
「そうなんですか、どっちなんですか?」
「まだ聞かないことにしてるの。ね?」

 夫婦で微笑み合う母を見るのに楓は思い出す。あれは誕生日プレゼントをくれた日の顔だ。
 でも、何を貰ったのかな。保育園帰りの…車の中で。お家に帰ったらねと言われて。

 保育園帰りと言えば、保育園の近くの神社であった祭りにも寄ったことがあった。当時住んでいた古いアパート。
 寄り道が初めてだったか、なんだったか。

「楓はどっちだと思う?」

 ふと真麻に振られて回想から返る。
 真麻は思ったよりも打ち解けているようでよかったと自分も溶かされるようで、「女の子かなぁ」と漏らしたが、まぁ、正直どちらでもよかった。

「そう言えば楓くんの名前って、季語なのかな?」
「そうよー。秋産まれなの」
「あ、そう言えば10月だね楓」
「うん、まぁ…」
「出会ったのもそれくらいじゃない?」

 言われてみればそうかもしれないが、はっとしてしまった。
 だが案外親はあっさりと「そうなんだ〜」くらいなもので、不思議な感じがする。

 特に詰まりはないまま部屋について、楓は母から引き受けた僅かばかりの荷物を降ろし、「よいしょ、」と生命を庇う母に手を貸した。

 一息吐いて改まった頃、「遠くまでわざわざありがとう」と母は真麻に言ったのだった。

「改まることでもないんだけど…、正幸さんと結婚しました」
「結婚前に伝えようとしたんだけども、遅くなっちゃって…」
「いえ、よかったです、本当に。これからも母をよろしくお願いします」

 置いて行かれることもなく、楓はすぐに「恋人の真麻勝成です」と真麻をあっさり紹介した。

 口が乾く、そんな気がしながらも真麻は「はい、あの…そうです。楓さんの、はい…恋人やらせてもらってます」とぎこちなくなってしまった。

「すみませんなんか…」
「…いえ、まぁその…少しは聞いていたんで…」

 やはり正幸さんは少し驚いたようで、すぐに「よろしく、えっと勝成くん」とこちらもぎこちなかった。

「いきなりでびっくりさせてしまってすみません、正幸さん」
「いや、それを言うなら俺も楓くんをびっくりさせてしまったからねぇ」
「勝成くん、楓をいつもありがとう」

 母は自然と真麻ににっこりと微笑み、「ふつつか…ですが」と言うのだけど、

「いや、百合、それはなんだか違う気がする」

 と正幸さんが言えば、「ははぁ…」と真麻が苦笑する。
 意味がわかれば「ホントだ変なの!」と楓が笑った。

「え、え、やっぱり違うのかな?うーん…」
「正幸さんでよかったです。ありがとうございます」

 場は一気に和んで行く。
 そんな事情に真麻ですら、なんだか幸せそうで、自分も幸せだと感じた。

「その…楓は昔から身体の弱い子で、でも優しくて、おっとりしているから」
「そうですね、確かに」
「母親なのにあまり構ってもあげられてなかったから、正直今日は緊張してたんだけど…」

 真麻にも楓にも、あの日は過るから、楓は何も言えないのだが、真麻は「あ、俺もです」と突っ掛かりがない。

「やはりまぁねぇ…。俺としては呼んで頂けて、まずそれがなんというか、よかったのか…とか、まぁ考えました」
「ははは、俺も今日は同じような気持ちだったかも。長いわりには、所謂デキ婚になってしまって。楓くんはどうなのかな、とか」
「どうかと言われれば…俺も母は放っておいてしまったから、安心したというか」
「お母さんも…」

 ここに集まったものは皆同じ気持ちなようで、違う気もしている。
 去ったことも、誰かが現れたことも、本当はどうしようもなく利己的な気がしてならない、どこかでそう思っている。案外、誰と側にいても絶妙に噛み合わないものだ。
 また一つ錠剤を噛むように、過去を顧みる。

 打ち解けたその場から懐かしい話は数々出てきた。
 
 楓と初めてお祭りに行った日、金魚すくいにハマったんだけど、死んじゃったとき悲しかったよね。
 お熱出して保育園から呼び出されたイブの前日、お母さん必死すぎて怒っちゃった、ごめんね。
 二人で流星群を見てお家に帰ったこと、あったよね。
 
 数々の話に楓は「そうだったね」と相槌を打っているのだが、「確かそうだったね」と曖昧になることもあった。
 多分、覚えてないところがあるのだろう。真麻はそれに気が付く。

「あの時楓、親戚の子と喧嘩しちゃってねぇ。飛び出しちゃったみたいでね」
「…そうだったけ」
「手もほっぺも冷たくて。お母さんびっくりしちゃったんだから」

 ぼんやりと思い出すのは、現実逃避のような星空だった。
 「あぁ、やりそうだなぁ楓」という真麻の安心しそうな口調に何故か、白くなりそうな遠退きがある。
 星空なんて永遠とは程遠い景色だ。

 こんな普通を皆耐えているのか、そう思えば曖昧に愛想よくしているしかない他人行儀な自分は起きない夢にいるような心境だった。

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