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それから最終日をあっという間に終えた夜。
訓練所の屋上で熱海はケータイを鳴らした。
「もしもし、樹実?」
『あぁ、どうした』
電話の向こう側でカチャカチャと音がする。それ以外が無音だ。
またこの人は、残業でもしているようだ。
「残業ですか?」
『まぁね』
「明日は、朝イチでこちらに?」
『あぁ。どした?』
「いえ。ご報告とご確認の電話ですよ」
『あっそう。なんかやらかしたかと思ったよ』
「え?僕ですか?彼ですか?」
『…お前、なんかやらかしたのか?』
「いや、何も。
強いて言うなら下半身クソ野郎を一人ぶっ飛ばしたくらいですかね」
相手の大きな溜め息。だが後に、笑い声に変わる。
『…よくやるよ』
「あなたに言われたくありませんよ。
…今回の人事移動、聞きましたよ」
『あ、そう。早かったね』
「まぁ」
『それで殴った訳じゃないでしょ?』
「まぁ違います。
樹実、あなた、何考えてますか?」
『俺?…さぁ』
全く、この人は。
「面倒な人だ。またそうやって、変なことに首突っ込んでません?」
『…なんだよ、説教?』
「まぁ少しは。
けどまぁ、あなたがそうやって無茶して|擲《なげう》つのはいつもです。もう慣れましたよ」
『…悪いねー』
「ホントですよ。でもまぁ、あなたは擲っても身を滅ぼしてもエゴを貫き通しますから、最早なにも言いませんよ。言ったところで無意味です」
『…怒ってる?』
「呆れています。だけどまぁ、そこまで筋金入りで自分を信じて行ける人、なかなかいませんよね。
…流星くんがね、あんたをヒーローだなんて言ったんです。笑っちゃうでしょ。でもね…笑っちゃうんです」
確かに、
「僕らにとってのヒーロー、誰なんでしょうね。ゴールは、どこなんでしょうね」
『…柄にもない。お前、どした』
「僕は、誰のヒーローでもないって話です」
『…俺だって、』
露骨に樹実は沈黙した。
太平洋に消えた思い。空の彼方に散った夢。それを今この男も思い返しているのだろうか。だとしたらそれはそれで痛み分け、甘美である。今となっては。
「…樹実。僕はね、君を恨んではいないんだ。だから君が羨ましい。君は、とてつもなくエゴイストだ。だが、その野望が、僕らのノスタルジーが、こんなにも、幻想的な未来を描いたんだね」
『雨…』
「樹実、僕は…」
君に、伝えていないことがある。
『雨?』
「…僕、僕も、最近猫を飼い始めました。臆病な子だけど、すごく繊細で、生意気だけど、可愛いんですよ」
『…飼い主に似るって言うよ』
「…嫌だなぁ。社会不適合者が一人増えるかな」
飼い主に似る、か。
「いつかまた彼に会うことがあったら、その時はよろしく」
『…?』
「君だから言うんですよ、樹実。僕、友達いないから」
何かを含んでいるのは確かだが。
樹実ですら、雨の心情がその時はわからなかった。
「そうそう。君、ベンジー派でしたね」
『…は?まぁ、好きだけど』
「…彼はミッシェル派らしいですよ。僕、思わずリンゴさんとスターリンを貸してしまいました」
『…仲良くなったようで何より。よかったよ。
俺もね、お前だから預けたんだよ、雨』
「…そうですか。
残業、頑張って下さいね」
そう言って熱海は電話を切った。しばらく、画面を見つめてみる。
「嫌になっちゃうなぁ…ホント」
誰も聞いていない。夜空の、一言。
何に対して、呟いたのか。
次の日、熱海はいつも通りの胡散臭い笑顔で会い、いつも通り軽口を言って別れたので、まさかこの後に事件が起こるとは思わなかった。
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