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母は、武家に嫁いだ身としてとても出来た女だった。
貴之の家に下女等は居なかった。それほど財政が良い身分でもなく、母は父の上司へ挨拶回りを欠かさない上に、炊事洗濯掃除もきちんとこなしていたが、苦悩は一切見えなかった。
父は職業柄、知り合いが多く存在した。その一つ、“條徳寺”の坊主とはとても仲が良く、父はよくその和尚の話をした。
貴之には和尚と面識はない。しかし父はよく話すのだから、側にいる気もしてしまう。
貴之の坊主に対する印象は父と相違なく「奇妙な人物」と言うものだった。
その坊主は“蘭学”なるものを学んでいたのだから、奉行であった父と関わるのが密接だったのだ。
「おもろいもんでなぁ、貴之」
父は、よくその話をする。
「山脇東洋いう医者の話を聞いた。
獺の解剖から、いままでの陰陽説だとかそないなもんに疑問を持ち、腑分けに立合い人体を絵に描いたそうな」
「陰陽説いうんはなんや?」
「この世の物は二つの気の力で成り立つ言うもんや。
陰とは暗くて冷たい夜の力、陽とは明るい太陽の力や」
「…それがなんで腑分けに関係するのでっしゃろか」
「そら父にもようわからんかった。坊主もようわからんかったんやて。体のどこに気流れてるかやら、そんなんかもしれへん」
「気とは、一体どないものなんでっしゃろか…」
「目に見えない力なんやで」
「それは、そもそも人体に流れていても見えない。せやけどその医者は人体を描いたんですか?」
「あぁ、言われてみればそうやねえ…」
父はこうして、坊主との話を持ってくることがあるのだが、大抵は疑問のままでああではないこうではないと話をして、答えに行き着かずに終わってしまうのだ。
「坊主にまた、書物奉行に請願しといてくれと頼まれてしまったよ」
父と話す時間がある日は、そうして話しているうちに母が「楽しそうですね」と微笑み、晩飯を用意してくれる。
「あぁ、條徳寺の坊主がな、西洋医学の話してたんや」
「お勤めご苦労様であります。西洋医学ですか」
「まぁあまり食事の際に話すもんやないなぁ」
「そうなんですか、なんだか私も気になりますねぇ」
母はそう言って父に笑いかける。父も母には「あとでな」と嬉しそうである。
貴之がそれに「会ってみたいわ父上」と請願してみると「ん?」と父は言うのだった。
「あの坊主に?」
「はい、なんや興味が沸きました」
「そうか。しかし…父も仕事で寺に行くのみやからなぁ」
「貴之は勉学が好きですね、良いことですよ」
「そうやなぁ、貴之は医者になりたいんか?」
「いえ…そう言うわけやないんやけど」
「医者は大変やで。まぁ立派な仕事やけど、存外嫌がられる仕事やねぇ。まぁ、機会があったら。貴之はなんせ道場もままならない聞いたで」
父がそう言うのに母が「ふふ、」と上品に笑う。
「違いますよ旦那様。貴之は少々器用ですが、不器用なのです」
「母様?」
「よく考えすぎて物により、でしょう?」
「はぁ…私はまだまだです、母様」
「まぁ、考える事は父も感心するわ」
それには「えぇっと…」と気まずくなる。
確かに自分は器用ではないと自覚がある。ただただ物思いに耽ることが多く、好きなだけだ。
「…私はただ考えることが好きで、好きなことなら出来る、言う、だけであります」
「ははっ!正直でよろしゅう。まぁ人には得手不得手がある」
「せやけど…」
「たくさん悩むのは良いことですよ」
「私には悩みがたくさんあります、」
母は「考えなさい」と笑ってくれる。父も反対はしない。
小手の切り換えが少し苦手で何が重要か見えてこない。それが些か気持ちが悪い、はっきりさせたいという気になり「うーん…」としかめ面になれば「わかたわかた!」と父は京の言葉を使うのだ。
「明日な明日。朝に坊主の寺へ行きましょ。ただし貴之、夕方の道場にも行くんやで」
「…ホンマでっか父上」
「ホンマホンマ。父が嘘を吐いたことあらへんやろ」
「あら、じゃぁ明日は朝御飯は早めですね」
「母様、それなら手伝います!」
「おぉ、なんや偉い気合いや」
果たして話に聞く坊主はどんなに珍妙なのか、想像は出来ない。だがこういう一つ一つが、ただ単に楽しい、それだけなのだ。
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