6


 突然叩きつけられた生死に貴之が思いを巡らせようとも、母は眠るのだし父は何も考えぬ物となってしまった。

 腑抜けてしまった父をまずは寝室に連れて行き、「私がなんとか…」と、考えようとするのだが一行に何も浮かばない。

 貴之は一つ、和尚の言いつけを破った。
 とにかく今をどうにかしようと母についていることにしたのだ。

 だが眠りは浅く、貴之が疲れはて少し眠ろうとした頃に母はまた苦しみ、痙攣を起こしてしまう。
 目の当たりにすれば貴之には恐ろしくて堪らなくなってしまいそうだったが、母に薬を与えなければ死んでしまうのだと、「母様、落ち着いてください、落ち着いてください、」と薬を飲ませて眠るのを待つしかない。

 気が狂いそうだった。
 流れにも着いていけないし何も掴めずにいる。
 そうやって一日はまた過ぎてしまった。

「父上、朝やで、」

 父は腑抜けたままだし母は治らない。

 どうにかしなければ、なんとかしなければ、痙攣し薬を飲ませ疲労しながらも母は一日でも見るからに憔悴する、なんとかしなければ、どうにかしなければ、けれど眠りにつく母は静かであるが息をする、一番まともに見える、これが極楽か、自分はいま何をしているのか、果たしてこれからどうなるのか母はどうなるのか、頭が一杯で仕方がない。どうしたらいいのか、わからない、母は、自分は、父は。

 呪符のような物だった。急に流れてくる、それは経のようにひたすら淡々としている。一つ安心すれば急に気が狂いそうになる。

 だが言われた通りの3日目、母ははまともに目を覚ましたのだった。

 一時安心しては「母様、お大事、ないですか、」生きていますか、苦しくないですか、様々が溢れそうになるが弱々しく一言、「貴之、お坊様を呼んでください」と母は貴之に告げる。

 母は凛としているように感じた。

「…母様、」
「悪いですねぇ、貴之」
「いえ…あの、大丈夫です、あの…」
「お坊様を呼んでください」

 お坊様なんて、何故。

 これを貴之は母に言えたかわからない。だが母が「お坊様ならなんとかしてくれますから」と、やはり、凛としている。

 その事情が信じられない。
 だが、正直一度、逃げてしまいたくて違う空気を吸いたかったのかもしれない。

「わかりました」

 物分かりは良い方、そう自分で不意に皮肉がよぎっては貴之は家を出ていた。

 母の声はどんなものだったのだろう、父の気持ちはどんなものだったのだろう。
 そう言えば父には今朝声を掛けたが果たして公務に出掛けただろうか。

 急に胸騒ぎが押し寄せる夜の道だった。胸騒ぎというのは何時如何なるとき何故起こるのかはわからない。
 動悸とも違う、しかし心の臓は苦しいような、気分が悪いような気がして不安。じわじわと広がる闇のようなもので、早く行かねばならない。いや、早くどうにかして欲しいと歩みを早める。

 貴之には初めての感覚だった。思い返せば全てが不穏に繋がっていく気がしてくるのだ。これが和尚が言った言葉の意味なのかもしれない。

 夜に寺を訪れた子供に「何事か、」と寺の坊主は皆玄関に寄って集った。

 「あの、あの…」と胸を押さえて座り込んだ貴之にはついに目眩がしそうだと、そこまで安心なのか不安なのかが襲いかかり冷や汗までかいた。
 一気に寺、と言う思想に死が見えた気がして「早く、どうにか…、」縺れて叫ぶ先に「貴之」と、和尚の声が聞こえてきて、坊主に呼ばれた幹斎が現れた。

 貴之の様子で全て把握した和尚は弟子に、「経と数珠を持って来い」と、用意しなかった物を命じる。

「…貴之、」

 和尚が声を掛ける。
 見上げた和尚の表情などは変わりもしないのだが「立てるか」と聞き取れる。

「少々歩いて戻れるか」

 答えられなかった。
 和尚は経文と数珠を持ってきた弟子に「この子供を運べ」と命じるのだが、「あの、」と漸く出ていく。

「か、…母様がなんとかしてくれと、」
「…うむ」
「今は、はっきりしていて、」

 そこで一度坊主が息を吸う。

「…役人と火の準備もしておいてくれ。火は敷地があれば取り敢えずいいが役人は早々に呼ばねば来ない」

 和尚が坊主に命じるが坊主は「…火、とは…」と場にはそぐわず話に踏み入り引き出そうとする。

「…土葬は不衛生なんだ」

 言った和尚に貴之がはっきり「なんで、」と言うのが物分かりも悪い、そうでないことが言いたかったのだが和尚はそれに「わかるだろう、」と答えて、はっきり自我を持った。

 母は助からない。

「…とにかく今日は寺に泊まればいい」
「あの、」
「せやから来るかと聞いたんだ」

 そこではっきりしてくる、何に対してどう言いたいのか。それがわかれば痛いほどに歯を食い縛ろう、男児なら拳を固めようと震えてくるのだが無理を承知で俯いた。
 漸く涙が溢れた。

 和尚が隣を通り寺を出ようとするのに違うかもしれない、そうかもしれないと思いつつ貴之はその、袈裟掛けられた着物を強く握る。

「…けて、ください、」

 和尚は黙って見下ろす。

 本当にそうなのか?
 いや、そうなんだ。

 あぁ、この子供はいま漸く正しく受け入れたのかとふと和尚は貴之の頭に手を置いて「だからお主が来たんやろ」と呟くように静かに言った。

「…坊主、早く行こう」

 和尚は着物を握った貴之の手が解れるのを感じてその手を握る。
 あとは言うこともない、だが貴之はそうなってみれば安心の中にその分、胸騒ぎが増したような、気がした。

- 19 -

*前次#


ページ: