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 闇は、深くなっていく。
 足元の砂利すらざっ…ざっと雑踏と感じる程に物悲しく煩い。
 摺り足に濁る心臓の音はギリギリ、塞き止められているように頭から出ていかない。

 川の水流は穏やかだった。海からは遠いというのに淀んでいく湿り気が一層、心を鬱蒼とさせていく。
 山の蒼さは今は暗い。川を一つ越えたあたりで目の前の和尚が一度立ち止まる。
 見上げると和尚は袖口から数珠を出しては「胸騒ぎがする」と、貴之に投げるように渡して呟く。

「持っておけ」

 それだけだった。
 数珠を眺めて実感が少し遠退いた。
 しっかりしていない。心の中で見る真実がどこか、前頭葉あたりに沈殿していく、溜まっていく、それだけで重さと清流が別れる。母はもう助からないと言う呪文でしかない。
 再び川のせせらぎと共に歩き出した坊主の足取りすら、擦っていた。

 何も言わぬまま、ふと、家がだんだん近付いているとどこか遠くで気付き始める頃には、夜目でもわかる風景、空気と何より和尚の足が早まった気がしたからだった。

 気付いたのは自分だけじゃない、幹斎が貴之に「家はどこだ、」と切迫したように訪ねる。

「はい、…この付近で間違いないです…真っ直ぐ行けば」
「お前は何か感じるか」
「え、」
「儂は何故だか急がなければならない気がするんだ」

 そう言われてはっきりと自覚してしまう、和尚は沈殿した泥を蹴散らしたかのようで、水中に舞っては氾濫したかのよう、何かが濁って先が見えない、だから、怖いと気が付く。

「…な、何かとは、何かとは、」
「とてつもなく悲しくて、汚れていて、いや、何かはわからない。とにかく、急ごう」

 そう言って和尚が握る手に力が籠っている。
 この人を自分は連れて行かなければならない。それにすがって手を握り返す。

 少年の手は震えていた。

 近付けば近付くほど三川の、合流地点のように気持ちが焦る。怖い、それよりもあの母親の姿を思い出す。痩せ細って、苦しそうで、自分には何も出来ていなかった。

 家が目の前で溢れ出した。
 一度堪えて遠くに流した涙が滲んでは、動悸と息苦しさで瞳を湿らせてくる。母様、今お坊様を呼んできたから、溢れ出して「待て、貴之」と言った和尚のことも忘れかけて玄関を上がると聞こえる、

「貴之ぃ?どこ行ってるんだ」

 …父親の、腑の抜けたような声が、母を世話していた広間から響いた。
 その一瞬で、ピタッと動きをやめた貴之に、「少し、待て」と和尚が密やかに言っては、息を殺すようにまた自分よりも先に行く。

 ただ事じゃないと気付いた瞬間、湿り気のようなしつこい臭いが鼻をついた。

 和尚がきつく手を握る。

「北条殿、儂だ、幹斎だ」

 心なしか坊主の呼び掛けまで震えている気がしたのだが「ああ、幹斎和尚」と、父は開け放たれた戸から姿を見せた。

 「わっ、」と驚いた幹斎が反射的に朱鷺貴を覆うように隠すけれど。
 父の気さくな笑みは遥かに強ばっていた。

「…ち、」

 父上、と出ていかない。
 「見るな、」と隠す和尚と「貴之」と呼ぶ父が重なる。
 一瞬にして見えた父は顔まで血まみれで、刀まで抜き赤く染まり…利き手に何か、何か、持っていたではないか。父の手からぶら下がる、何か…。

「か、母様は、」

 言葉が出て行ってしまったと自覚した瞬間に父の「お小夜を殺してしもうたわ貴之」と、語尾が震えるような一言が聞こえた。

「落ち着け、落ち着け北条殿、」
「和尚さんもおらはったんやね。はは、見いやこないに痩せてしもうたわ」

 どさっと、父が座った音がする。
 どさっと鼻につく。初めて知ったこれが血生臭いというものだと。

「父上、」

 そして貴之は死に物狂いで和尚から離れようともがく。父上、母様は。そればかりが狂ったように喉から出ていくが「貴之!落ち着け、ダメだ、」と狂ったような嗜めも聞こえない。

 間違いない、間違いなく父は母を殺してしまった。そんなものは見なくてもわかる。見たくもないのに体は見せてくれと幹斎から足掻く。

 「あ、」と幹斎は言ったが胴が抑えられた。
 はっきりと父が目の前にいて「はは、」と、脱力したような声色だった。
 睨むように濁った目と、右手に握られているものがありありと理解出来た。ベッタリと血が浸透した母の髪…頭だった。

 瞬間に止まった。
 理解が追い付いたら思考が遮断されたかのよう。父が母の首を切った。経文のような単語として事実が、並ぶ。

 父がふと笑い、「和尚」と低く腹残りがする声で続ける。

「介錯をお願いしたい」

 父上。
 呼ぶことすら出来ない。
 妻の首をそこに置いた父は完全に魂が抜けたようだった。

 …介錯。

 貴之が今にも気絶するかのように前に倒れそうなのだから、和尚は「待て、」と男に言いつつしっかりと貴之を抑えたのだけど。

「…っ、」

 唸りが聞こえた。
 父が腹に脇差しを刺していることなど見なくてもわかる。

 「北条殿ぉ、」と叫ぶように言う和尚も、父が最期に和尚の腕にすがり付いたのも、理解する。

 手を、少しだけ伸ばした。
 ただ、掛けていた数珠が廊下に落ちただけだった。

 泣きそう、苦しそう、悔しそう。とにかく念ばかりが浮かんでいる和尚の顔を見て最後、戸に凭れて意識を無くした。

 次に貴之が目覚めたときは自分の叫び声だったのだ。

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