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「学がないとは哀れなことだ」

 傷の男は後に語った。

 “和泉の代官《仇》”を追い詰めたはいいが、脱け殻は捨て身だった。結果、水鶏《くいな》は和泉の国で斬首刑を言い渡されたが振り絞って狩りに向かいその男と出会った。

『藤嶋宮治《ふじしまみやじ》だ。藤宮一真《ふじしまかずま》の噂は聞き及ぶ。
 藤宮と俺は犬猿だ。そして俺は今から隠居し、新しいライフを満喫しようと思う。恨みもない、優雅な。
 どうだ腕を買う。お前、着いてくるか』

 それは14の少年に新たな風を呼び起こす。

「新しいらいふ?」
「生活だ」

 傷の男、藤島宮治はそう言って水鶏を、処刑所から拾い上げた。

「…ふはは!お前は泥沼よりも清流の方が性に合うだろ!」

 藤島宮治は京の色町で若衆茶屋を営むヤクザ上がりの男だった。

「………」

 信用の程、それはわからない。
 「…翡翠《ひすい》」と、穏やかな表情で藤島はぼそっとそう言った。

「いざとなれば捨てる名だろう。お前にこの名をやるよ」
「…ひすい」
「あぁ。お前字は書けるか」

 藤島は水鶏と“金鐘楼《きんしょうろう》”の楼主部屋で、そう向き合った。

「…字、」
「まぁこっちこいよ」

 左笑窪は少しひきつるような微笑み方をするこの男。

 文机に呼ばれた少年の眼は、存外濁っちゃいねぇもんだと、藤島は半紙に筆を落とし「翡翠」と書く。
 ちらりと覗く、筆を持つ手の切り傷。
 町人生まれの少年では初めて見る字に感想はなかった。
 
「別の読みをカワセミと言うんだが、この漢字は清国のもので、あの鳥の色からヒスイというんだよ」
「しんこく?」
「お隣さんだな。海を渡って向こうにある」
「黒船の…」
「黒船はその清国を完全に食っちまった。この国も危ないだろうな」

 藤島は少年に筆を渡そうかと翳してみる。
 どうしたものかと眺める純粋な目に、「翡翠、」と語るように呼び掛けた。

「亡骸は捨てるに限るのさ。泥沼から飛び立ったのなら、後ろを見るのは道理じゃない」
「…そんなら姉は泥沼に置き捨てるんやろか」
「…あぁ、そうだよ」

 藤島は少しだけ少年を案じたように、視線を外す。

 藤島は少年に真実を語った。

 姉の観月《みづき》は遊郭で狐狼狸に掛かった。そして藤宮界隈から流れた芥子を快楽とし、最期は気も定かでなく絶頂のように死んでしまったらしい。
 恐らくは狐狼狸、それもあるが何より元来芥子が持つ毒性がとどめを刺したのだろうと言う。

 藤宮に溺死させられた。

 少年はそれを一本だけの衝撃だと、簡素な理解をした。端から代官は姉を気に入っていたのだけど、なるほど、姉は代官の面を汚した、つまりは拒否をしていた。
 一度代官があの日姉を連れ帰ったのかは最早知ることも出来ない。
 癒着していた藤宮が代官の面を守った末に姉を売り飛ばし金に変え、挙げ句気狂いで死んだ、これで片が付く。

 全ては姉があの代官の目に止まってしまった末だった。あながち鷹が言ったことも間違いでないが自分は利用された、ただそれだけの、よくある話だった。
 自分を脱け殻にしたそこは本当に泥沼だった、という、だけ。

「翡翠」
「まぁ僕も亡骸のようなものやったから」
「…翡翠。
 翡という字は雄で翠という字は雌なんだそうだ。翠はみどりと読み、この卒には混じりけがないという意味がある」
「姉さんを忘れなくてもいいん?」
「そりゃそうだ。だがお前も名や過去、全て捨てて新しい生活をしていいんじゃないか?」
「…うーん?」
「まぁ、難しく考えるな。そのままの意味だ。姉と一緒に死んじまったんだよ、お前は」
「…そ、れは…」

 そうか。
 あの日の戸を思い出した。暗くて、怖くて、そう、もう僕は死んでしまったんだ、それがいいと思った日に。

「…っうぅ…、」

 堪えてきた物が駆け巡った。歯を食い縛る、これは当たり前だったが「よしよし、はいはい」と藤島は泣く自分を抱擁してくれた。落ち着くまで、暫く。

 「ふっ、うぅ、」と、あの日と堪え方は違えど声が出る。だが押し倒されたのは同じだけど。

「今日は眠るぞ。起きたら名前くらい書け。そしたら店を案内するが、お前は頭が悪いから裏方だ」

 寄り添ってくれるようで、「あい、あい」と返事をする。

「面は良いんだけどな…。多分店でも一番だろうね。花の盛りでもあるんだがなぁ」
「…元服前やで」
「…あとは敬語を覚えろ。娼人なんて皆ひねくれている」
「…よくわかりまへん」
「だろうね。叩き直されて賢くなれよ小僧」

 そのまま二人で爆睡してしまった。

 翡翠はそれから、藤島宮治の小姓、それ故男娼達の世話係となる。正式に店で働く頃には名前を書けるようになるが、それは少し先。
 藤島の小姓とて業務は、簡単にはいかないものだった。

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