3


「内儀とはいいご身分でんなぁ。そりゃあ使い勝手もよろしゅうて」

 と朱里が皮肉のように言えば場が凍結した。

 冷たい空気が流れたと間をなくして翡翠が読み取ったのだが、それとほぼ同時に藤島はふと、朱里の胸ぐらを掴み右の膝を蹴り飛ばしたのだった。

 どさっと朱里が床に倒れれば藤島は朱里の怪我をした手をじりっと踏みにじる。

 「痛っ!」と顔を歪めた朱里にあわやあわや、どうしましょうかと翡翠の気も焦るのだが藤島は構わず「おい朱里」と吐き捨てる。

「僻みかお前。口が過ぎるな。てめえのような散りかけに関係ねぇだろ、俺は何があったか聞いてんだよ」

 ひんやりと言い捨て、藤島はぼんやり、と言うよりはふらっと、狂気じみて朱里を見下ろしている。
 「店主、」と漸く翡翠が止めようにも、朱里は自由あるもう片手で藤島の脛を殴りそれで踏みつけている足を退かす。

 ちらっと、翡翠を見たその藤島の目は睨むようだ。

「お前に翡翠を付けようか朱里。
 お前ももうじき年季だし、使い勝手が良いように店の仕事を叩き込んどけよ」
「はぁ?」
「こいつには年季がない、そういうことだよ朱里。お前は若い衆の仕事は見ているだけだっただろ。
 そんなんで世話が勤まるわけがねぇんだよ、」
「…そんなら楼主、やはりその子は売りに出した方がよろしゅうないですか?」

 あくまで朱里は藤島に反抗的なようだが、なるほど優しさはあるなと藤島が内心で客観する。

「口答えすんなっつってんだよ朱里。何をやろうが汚れちまってるだろう、違うか?正直俺は売りしか知らないより遥かにいいと思うけどな」

 皮肉だがこの男にも優しさはある。

 この男はそう、そういう男で、自分の元から無くなることを前提としてここにいる皆を匿っている。
 わかるからこそ、不貞腐れるのだ。

 「けっ、」と言いながら立ち上がり「冗談やない」と立ち上がった。

「自分の内儀くらい自分でどうにか出来るのが筋やで楼主。わては人のお客と懇ろになるほど暇やないねん、ゆっくり遊ばして」

 そう言って朱里は部屋を出ていく。

 それも一つの表現か。
 腹積もりもわからぬままだ。藤島は翡翠に「付いていけ」と命じた。

「…いいん?」
「敬語を使え。あいつはああ見えて女みてぇに気遣いが出来ると、評判でもある」

 よく分からない事情だな。
 「早く行け」との藤島の催促に翡翠は首を傾げつつ、朱里を追った。

 「あの、」と追ってくるような翡翠に、朱里は妙なもんだと溜め息を殺した。

 別にそう、この子供には関係はない事情なのだ、いまは。
 気の強さを取り払い、朱里は翡翠を見下ろす。

 待つように立ち止まってくれた朱里に、翡翠は黙って見上げてみた。

「ああ、無礼やったな、堪忍してや。
 あんさん翡翠言うたか。どんな手管で取り入ったんか、少々忘八の気も知れないところやし、旦那のせいで手が痛い。あんさんこりゃぁ暫くお茶でも付き合ってくれますか」

 まぁまぁ、仕方がない。

「……忘八とは」
「あぁ、業界は初めてなん?てっきりどっかの店から流れてきたん思うとった。忘八言うんは藤島や。
 忘八言うんは八徳を忘れた人でなし言うことや。あんさんホンマにここで働くんか?」
「……うん」
「うん?
 あかんね“はい”や。苛められるで」

 何故だか、たったのそれだけで。
 自分が子供の頃にあの忘八に手を引かれ、ここに来た日のあの門の景色がふわっと浮かんできては、

「……はい」
「ええ返事や」

 朱里は子供に少し、興味を持つ感覚を覚えた。

 やはりあの男の気は知れないものだ。意味があるかもわからないが、朱里は翡翠を自分の見世に連れて行くしかないのだと悟る。この子供はどうやら純粋だが、川岸の狩り鳥のような臭さがある。

 二階の見世の前について朱里はまず、「茶汲みからよろしゅうなぁ」と翡翠に告げる。

「茶ぁ立てられるか?」

 子供はぽかんとしている。
 はぁ、と溜め息を吐いた朱里は「ホンマにあかんな」と正直が口を吐いた。

「せやから藤島、店に出したんね…。
 もうわてが指南するさかい、着いてきいや」

 とまた手を取られ連れて行かれるようだ。
 取った手は、先程藤島ににじられ、血が滲んでいる。
 それを見て「大事ない?」と翡翠が言ったことに、ふと朱里が振り向いた。

「……」

 止まって手を眺め、無言でその手を口元に持っていき舐めた翡翠に「あかんわ」と言えば見上げる純粋な目。
 朱里は少し嫌そうな顔をしたのだった。

「どーしょもない童やねあんさん。こりゃ確かに店に出せまへんわ」
「……これが良いとおかんは言うとったで」
「あんさんはおかんか小僧。ちゃうやろ。
 藤島からなら軟膏くらい持ってきいや。菌が入るねん」
「なんこう?」
「塗り薬やて。あんさん藤島の小姓やるんならそれも教えてもろてきぃや」
「……はぁい」
「返事が長い、阿呆臭い」

 いちいちうるさいものであるが、
「ふ、ははは!」と、朱里が続いて明るく笑うのだった。

「はっは堪忍してぇ、腹がよじれて中身が出そう。わかた、一緒に藤島に茶ぁと軟膏もろてこよな」
「怒られるんちゃう?」
「あぃい?何言うてんねんあんな男。殴り返しに行くついでや」

 その朱里の笑いは、先程の千鳥のよりは明快に感じた。

- 8 -

*前次#


ページ: