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「最低だ」

 ふと呟いた真樹の一言に、取り敢えず一言「あぁ、そうだな」と一之江は返す。

 タバコを取り出し火をつける。一之江がそうすれば真樹も真似をした。

「だがまぁ、愛情だ」
「は?」
「お前やつらのおかげで声出てるじゃん」
「ん、まあ」
「あれは本当の話か」
「はぁ、だとしたらなんなの」

 急に真樹が反抗的になった。
 あぁ、しかしまぁ、こういう人間は単純だ。

 タバコの煙を吐き、フィルターギリギリまで吸ってケータイ灰皿に捨てる。真樹もそれに習い、手を伸ばした。

 火を消してポケットにケータイ灰皿をしまって、それから真樹の手を引き寄せ耳元で強引に言う。「そーゆーやつが一番好き」と。

 硬直している。それが面白い。

「気の遠くなるほど餓えてんのな、お前ら」

 そうかもしれない。

「夢、聞かせろよ」
「…嫌だ」
「俺の夢の話、聞く?母親とセックスしまくってる夢。首絞めながら」
「は…?」
「何も、お前だけじゃねぇのさ」

 それだけ言って目を合わせるだけ。ビー玉が揺れて、そしてポツリと話始める。

「…気付いたら、殴られて、気を失ってて、誰かが言う。『ビニールを取れ』って。
 視界が暗くなって、多分、黒いビニールに、包まれて。
 動けなくて、なにも感じない。そのうち、冷たいなにかが、掛けられて。多分、土。そこで、あぁ、殴られて犯されて殺されたんだって、理解する。
 気付いたら、白い箱の中。点滴を打ち込まれて、なにも考えず、天井を眺めてる。医者に凌辱されながら。そんな夢」

 思い出す。
 あの最期の母親の笑顔との落差。

 耳鳴りのようにチャイムが鳴る。耳鳴りのように『隠れて、真樹』と言う。母親が抱き締めてくれる。どうしてあのとき守れなかったのか。いなかったのか。

 幸せを眼にした時に鮮やかな、あの白だけが眩暈と陶酔で襲いかかる。これが心療内科だ。現状だ。殺されはしない。息は潜める。押し入れの中のチャイムとドアを叩くあれだ。

「今日見たのはそっち」
「いつもは?」
「さぁ、覚えてない」

 それから。

 真樹は急な抱擁と力が掛かって押し倒された。
 ただ、一之江は、「ふっ、」と笑っていた。

「よーちゃん?」
「案外大差ない。俺も」

 同じような孤独には出くわした。

「俺と違うのは、そうだなぁ、俺は」

 そんなに人を愛していない。首絞めようが絞められようが、それは憎しみ。自分の感情はただ、溢れた空虚の穴埋めでしかなかった。

「それはどうして?」

 どうして。

「わからない」

 わからない。

「こうすれば征服してるという気になっていた。この空虚を産み出した根元など死んでしまえばいいと思った時期の夢を見る。
 しかし愛情はそうじゃないさ。自分を愛していないのはただの倒錯だ」

 その一之江の一言に深い哀愁を見た。きっとこの人にも何か、あったのだろう。

「だが…まだ俺も辿り着かないよ」

 絞り出すように言って微笑む一之江の微睡みのようなその哀愁と、ふと軽くなったと思えばこんなときに、子供のようにふと仰向けになって天井を見上げる空虚な、自分とは違う黒い目が綺麗だと感じた。
 まるで心理。宇宙か何か壮大なもの。

「あんた、綺麗な目してる」
「えぇ?なんだそれ」

 怪訝な表情で天井から自分を見る彼の豹変に、思わず真樹は笑ってしまった。

「ねぇ帰ろう、オカモト先生」
「違うから。一之江です。お前ら頭が足りない」
「でも持ってたのが悪い」
「あぁ言えばこう言う。もういいしばらく、帰らない」

 不貞腐れたらしい。大人なのに。

「ふふ、」

 急に真樹に腕を掴まれる。見れば憎たらしいまでに幸せそうな表情で。
 痛々しくて、思わずちょっかいを出すように頬を撫でる。

「幸せそうな顔しやがって…」

 空虚な茶色い目が捉えるその一之江の表情は、何故か泣きそうだ。どうしてだろう。けど何故か、確かにこうしているのが絶望的なまでに、有り余るほどの幸福感。

「ごめん、いまはまだ辛いだろう…」
「どうして?」

 この後真樹に押し寄せるだろう様々な感情の起伏を一之江は考える。身体の変化を考える。幸福感もそのひとつだとして、その時により様々だ。

 合わないかもな、この薬。

「謝るくらいなら、  」

 それから発せられる罵倒なのか自虐なのか甘美なのか攻撃なのかわからぬ一言に、息が詰まる思い。

 そうね、うん。確かにそう。

 そのまま、一之江は真樹をわりと乱暴に抱き締めた。最早暴挙だった。

 いつまで経っても不安定なまま、それはきっと互いに拭うことが出来ないのはなんとなく、高校生だろうが大人だろうが同性だろうが生徒、非常勤講師だろうがわかる。おそらく、同じ人種だから。稀少種だから。

 真樹の呼吸はどちらかといえば正常の中の異常。発汗作用は正常の中の異常。

 ただ頭にきた。

 俺だって救いたい訳じゃねぇよ、救ってやったなんて、んな自己満的陶酔でこれまで人を愛せてきたらどれだけ楽だったと思ってんだよ。ナメんじゃねぇよ、クソガキ。

 少しまごつく左手の包帯がうざったい。赤い血もどうでもいい。外して再び露になったときの挑戦的な真樹の目付きに、一之江は背筋が震える思いがした。

 傷口をなぞる艶かしさと湿り気が妙に愛しいと、どうしてそう感じるのか。恐らくは、首を絞めるあれと変わらないのだと苦さを覚えたとき。

「どうして」

 掠れた声が聞き取れなくて、その手首を掴んだ手付きを止めた。

「どうしてそんな顔してんの?」

 何が。
 言えなくて手を離した。よくわからないその感性に、確実に、胸は締め付けられた。

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