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 多分それは計りしれない空虚。自己投影に似ていて。
 依存は人を殺すことが出来る。それですら、心療内科の事案だ。だが結局、他者は入れない。
 心は、一生一人で一生安定することがない。結局教えてやれるのはそれしかない。

 あれから家に帰り、ソファに座って仕事を片付けながら一之江は考えた。

 ふと、甘いような、湿った空気の臭いが鼻について、沈んだ隣に視線を寄越す。真樹が風呂から上がり、体育座りで隣に座った。髪から落ちる滴に日常を感じる。

 片手を伸ばして乱雑に、真樹の肩から掛かったタオルでその滴を拭う。湿った臭いはより強く。相手が嫌がり自分で拭き始める事情が心地よかった。

「風邪を引く」
「優しく出来ないの?」
「なんか好きなんだよ、風呂上がりの他人の臭い」

 変態だ。

 その真樹の一言は聞き流す。
 どうせそうですよ。歴代の恋人たちに散々言われてきましたから。

 しかし。

 どうやらそれから手首の傷は塞がらないようだ。まぁ、あれだけ自分が弄くった。仕方のない。
 しかしタオルにつく血が少し一之江の罪悪感を誘発した。無言で手を出すと、真樹の顔には疑問符が貼り付けられていた。

「腕」
「あぁ、はい」

 物を渡すかのような感情のなさで傷口を預ける真樹に閉口。
 擦れている。
 しかし擦れさせたのは最早自分かと、一之江はパソコンを閉じ、手近にあった小さく簡易的な救急箱を片手で器用に開け、包帯を取り出して無機質に巻いてやった。

 それに対しては真樹が何も言わずにいれば、「へい」と、わりとキツめに仕上げやがって、思わず「つっ…、」と声を漏らせば、「へっへっ、」と、漸く楽しそうに笑う一之江が子供のようで、憎たらしい。

「これに懲りたら」
「いや今回のはよーちゃんのせい」
「根本はお前のせい。傷があったのが悪い」
「うるさいなぁ、もう、」

 けれどもまた彼はこうして、手当てのせいで手を自分の血で汚している。言葉とは裏腹にそれは少し申し訳ないと真樹は思ったりする。

 しかしその手に少しついてしまった血を舐め、「鉄分〜」とか言っちゃってるからまぁどうでも良いやと真樹は気にしないことにした。この精神科医、少し精神がアレなのだ。

 しかし、まぁ。

「ねぇよーちゃん、」
「なに」
「どうして、精神科医なの?」
「はぁ?」
「うーん、うんとね、」
「まぁ父親のレールに不本意ながら乗っかった。俺、まともな大学生じゃなったから。
 研究ばっかでつまんねぇ大学生やってて、気付いたら父親が死んでこんな感じ。俺一人っ子だし」
「あそう…」
「ただまぁ父親は脳外科医だったけどな。母親は頭悪いから俺に病院継承。御大層だよな、まともに診察すら出来ねぇ大学生に継がせようだなんて」

 とても奇妙な顔をして少年は硬直して聞いている。まぁ無理もない。こいつの生い立ちを思えば、奇妙なのだろう。

 ただ、真樹の硬直にはどうやら理由があるらしい。大抵、感情で対処しようと努力して、しかしわからない。そんなときのようだ。だから、こんなときは積極的に行くべきだ。

 ウエスト辺りの、傷口と反対側に後ろから手を回してみる。防衛本能には強いのか、硬直を解くようにびくっとした。

 てか、この反応ちょっと面白いなぁ。

「確かこの辺、小さな黒子が」
「えそれ今言う?」
「あと尾てい骨降りて左ほっぺ」
「やめぃ!ぶち殺すよ変態」

 やはり、防衛本能には強いらしい。
 更に、首筋あたりに息を掛けるように「おもろいなお前」と一之江が言えば再び真樹は硬直。

 あながち夢の話は夢ではないのかもしれないな。そしてどうやらこいつの性感帯、多分首筋。まぁ、わりと首が強いやつなんていないよな、とかぼんやりと一之江は考える。

「風呂入ってくるわ俺も」

 まわした腕を抜き、立ち上がってみればまた奇妙な表情で一之江を見上げる小動物に、内心愉快で仕方ない。

 なんだそれ。これって所謂天然タラシって言葉がちょうど良いんじゃないの?将来ジゴロとかやったら多分上手く行くだろ、こいつ。今のうちからなんとなくな才能。だから人って寄ってくるんだろうけど。真樹に対してそう思う。

「あそうそうコントール。最後飲んだのいつ?」
「うーん、21時とかぁ?」
「じゃぁやっぱ絶賛効いてたなあれ」

 あれは安定剤としてやはり微妙かもしれない。そもそもカルテをみたらこいつは薬物中毒レベルだ。なんだってあんなに。

「取り敢えず大人しく寝てろ。風呂入りたいんだ俺は」
「んー、はいー」

 なんだか真樹が不服そうだ。何が不満なんだ。
 ふとベットを指差す。やっぱこいつ天然タラシだ。

「あっちで寝ても」
「寝れないんだろ。わかったわかった。髪の毛まず乾かそう。はい洗面台まで行くよ」

 そう言えば嬉しそうに笑って、ついてくるもんだから。

 洗面台でドライヤーを貸して追い出した。風呂はゆったり入るのが健康に良い。

 30分くらいかけて全てを終わらせた一之江が部屋に戻ると、ベットの壁際は律儀に空いていた。
 真樹がうつ伏せになって枕元で何か書きながらうつらうつらしている。

 一之江を見れば真樹はふにゃふにゃしながら、枕の下にノートを入れ、ぼんやりと見上げる。

「チビ」
「待ってた」
「あぁはい」

 仕方がないので空いていた壁際に入れば、体をこっちに向けてきて、「よーちゃんさ」と言ってくる。

「なに」

 丁度ケロイドが上になる。自然と触れてしまうのは恐らく、一之江の職業病だ。

それに対して真樹は目を細めて、しかし拒否のようにその手首を掴んでくれば意地でも退かしてやりたくなくなる。指先でなぞってやれば諦めたらしい。溜め息を吐いていた。

「どうして」

 なにが。

「どうして俺を、構うの?」
「医者だから」
「なにそれ」

 言葉とは裏腹ににやっと笑って真樹は手首を離してくれた。どうやらこれは許容らしい。

「凄くそれ、排他的で良いね」

 なにを言い出すのか。
 いちいち、腹立たしくも刺激があって甘く切ない。

 やり場がなくて黒子を探れば流石に「殺すよ変態」と言われてしまった。しかし特に完全な拒絶ではないじゃないか。

「お前って嫌なやつだな」

 それに真樹は答えない。

 取り敢えずもう遅いし明日は学校も事件のせいで半休、叔父のクリニックに顔を出そうか、こいつは定時だし。少し時間はあれど和やかな眠りは欲しい。電気をスタンドに代えた。

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