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「なかなか、産まれぬなぁ…、」

 某日の折り、通り掛かっただけだった。
 障子の向こうが湿っぽい。

「私も……貴方の子がっ…欲しいっ、」

 幼心に、この先の秘密はなんだろうかと、庭からその部屋を眺めていた。
 明るいと部屋の中は見えない。だから、ひっそりとしたものだった。

「姉と違ってお前は元気でいいな、祺子やすこ
「……他の女の、話は、しないでっ…、」

 暫く縁側に座って聞いていた。一体誰なんだろうかと考えてみたりした。

 元来、考え事をするのは好きだった。唯一許された自由な行動で、それは誰にも侵害されない物だったからだ。

 この部屋のようなもの。いつでも開け閉めが出来、中のことは誰も知らないこと。
 それでよかった。

「あらあら、安仁しづひと様」

 書院に居た筈の自分を呼び戻しに来た女典、藤原妍子きよこはふと障子を静かに見ては、奥の廊下で「おいでなさい」と静かに言い手招きをして呼ぶ。

 それに従えば「お勉強はお済みですか」と何事もなく訊ねてくるのだ。
 そもそも口数も少ない安仁はそれにこくりと頷くのみで、また背後の障子を眺めるそれに女官は「どうされました?」とまた訊ねてきた。

「……いや、」
「何か、」
「特に」
「見られましたか?安仁様」

 何も答えない安仁をふんわり抱き締めた妍子は「お母様がいらっしゃいましたか?」と、奇妙なことを聞く。

「お母様?」
「そうですね」
「…女御とお父様がいた」
「そうですか。女御様はお仕事をなさっていましたか」
「そうかもしれない」
「では、」
「ねぇ妍子」

 妍子は、どうにも冷たい目で笑うような女だった。

「…他の女とか、祺子の姉とか、それは私も知っている人なのか?」

 その冷たい目はいつでもぼんやりとしていて、たまにふとどこか遠くを眺めているのだ。

「大変ご存知のお方ですよ。そうですね、一重に「母」と言うものなのでしょうかね」
「…母。それは、女御や女典ではないのか?」
「ええ。私たちは貴方の母ではありますが、安仁様はこの…女の腹に宿って生まれてきたのです」
「女の…腹、」

 妍子は小さな安仁の手を取り、しゃがんで自分の腹を触らせ「ここです」と穏やかな声色で言う。

「人は皆そうやって生まれてくるのです。
 安仁様も元気に15歳を迎えお父様を継承し、女に子供を生ませ、神の血を絶やさずにいることがお役目になりますよ」
「…どうやって?」

 いくら考えても甚だ想像がつかない。腹からというのは、一体どういうことだろう。

「いずれ、です。それまでに立派な男子になりましょうね」
「………」
「女には、一生の戦いなのですよ」

 そして手を引かれ後にする。
 前に、妍子は振り向き「安仁様」と問いかけるのだった。

「次は妹が欲しいのですか?」
「…妹?」
「女の子です」

 何を聞かれているのか、その時はわからなかった。

 妍子はえらく変わった女だったように思う。

 ぽつりと、それから暫く妍子と会うことがなくなった。
 翌年、妍子が「敏宮ときみや」という、小さな女の子を連れて自分の前に現れ、「貴方の妹君です」と言った笑顔には、あの冷たさがなくなっていた。

 妍子が何事もなくそれからも安仁と祺子の側にまた付き始めたある日、安仁は妍子に連れられ祺子の戸を開けた。

 祺子の腹が、はち切れんばかりに膨れていたことに、漸く安仁はあの日の妍子の言葉を理解したのだ。

 臨月だということだった。

 紐を掴み、まるで雄叫びのような声をあげ踏ん張る祺子の姿に、安仁は途中で何度か吐きそうになった。

 そして産まれた子供を洗う妍子に祺子は低い声で譫言のように「殺される、」と、唸る。

「…祺子様、」
「殺される、あの、あの女に…ぃっ、」
「どうしましたか、」
「…お前もそうだろう、妍子」

 いつも、素っ気ない母だった。いや、「素っ気ない方の母」が正しい。
 その時初めて母は苦しみながら安仁を…まるで呪い、阿修羅のような目付きで見つめ、「安仁とこの子を守れ妍子」と言を吐いたのだった。

「安仁は…っ、安仁は姉の隠し玉なのだ。あの…あの女に男を生まれては私は殺される、」
「…無理にでもお休みに」
「お前は見ただろう、妍子。成宮なりみやもあの女が落としたのだ、」

 その言葉は己の骨と肉に染み、後にも忘れることが出来なくなった。

 事実、それから日が過ぎ安仁が11歳の頃、その時の赤子は数えの3つで原因不明の死を遂げた。
 祺子は、その頃には外に出られないほど窶れていた。

「……はぁ?」

 そんな母に追い討ちをかけるように安仁には母違いの弟が現れた。初めて「あの女」の存在を知ったのはその時だった。
 子供の名前は、煕宮ひろのみやという、それだけは聞いた。

「お前は身体が弱い。お前の姉もそうやって死んだ。安仁の他にもう一人男の子がいても良いだろう。
 本来なら出家で隠居だ。財政だって悪い。わかったな?」

 父とは目が合ったことすらなかった。
 ただ、父が去った後に母は唸るように泣いた。それも忘れることは出来なかった。

「……んで、なんでっ…!」

 まるで足蹴にされたかのように、祺子は崩れて泣いたのだ。

 何故だか、それから安仁が母と会うことは許されなかった。彼女には悪霊が付いたのだと、そう妍子からは教わった。

 けれど、本当は知っている。

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