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「で、蛍さん」
「あぁ、はい」
「打ち合わせをしたいのですよ。店休みなのにすんませんが」

 完全に蛍は今、この雰囲気作家“甲爾《こうじ》”の脳内批判で、目の前の現実を忘れていた。

 というか、名前どうした。本名は全く別物の日本人だよな、これって中国人か何かになりたかったのだろうか。確か田中太郎並みの古風な名前じゃなかったか。何か意味でもあるのだろうか。インタビューでそこは聞かなかったようだ。

 これがうるさいとなると、確かに大変そうだ。

「腹減りませんか蛍さん」
「うん」
「蕎麦食べましょうか」
「ウメさんが昨日打った蕎麦をおすそわけしてくれた。3人前」
「それで夢見たんだな。なんで3人前?」
「ウチには大抵3人くらいは来るだろうってさ」
「はぁぁ、流石だね。後で俺なんか然り気無く持って行こう」
「家に菜ってた葱3本あげたよ」
「え、それちゃんと食える?早くなかった?」
「多分大丈夫だよ。早かったらウメさんとこ畑あるから」
「…あとで電話入れとくわ。葱ってお前怖いんだよ然り気無く」

 全くもって空太は心配性だ。

「大丈夫、二人で吟味してちゃんと採ったから」
「お前ってなんかズレてるよな」

 空太は呆れながらも笑って蛍の髪の毛を撫でる。これは最早クセである。
 いつの間にやら不機嫌さと気不味さは互いになくなっていた。

「さて、まずは作りますか。葱ある?あとは?」
「庭にあるのテキトーに採って良いよ」
「あいよ。君んち今何あるの」
「うーん、豚肉」
「はーい。取り敢えず待っとけ。プロットまとめといてください。それか暇潰しにそれ読んどいて」
「はーい」

 空太に言われたままに取り敢えず、素直に蛍が居間へ向かう背中を見て、少し、空太は一人、考えた。

 思えば、蛍と空太がこうしているのも今は、出版があるからだが。
 もしも蛍がこの一冊でこの出版社を去れば、空太との関わりはもう少し手薄になる。
 というか、関わっていけるだろうか。正直なところここ5年は、出版関係以外の用事を持っていない。いつか自分達は、関係が切れるのではないかという気が、お互いにしてしまっている。

 さつきのように、あんな幼馴染みのスタイルもあるのだろうが。空太は多分違う。蛍だってそうで。用事がない限りはあの日以来、二人とも関わろうとしていない。

 この前だって単純に、心配だから来たんだよと、その一言を空太は蛍に言いたかったような気がするが、じゃぁ何が心配なんだと蛍に言われてしまったら、紫煙の主人公よろしく、自傷を疑っていますだなんて、自分になんで言えるというのか。
 それを口にしてしまえば過去を、お互いの瘡蓋となった傷を毟り取るとわかっていて、空太には言う勇気なんてものはない。

 だがそれはそれで、紫煙を読んで、自分が痛んで確信した。

 お前のこの痛みをこの世でわかってやれるのは俺だけだと。

 それは暗い歓びでもあり愁いであり、間違いなく膿のように化膿した感情であるとも確信した。それに空太は激しく動揺し、蛍を思った。

 言うなれば、本当は。

 全体的に俺は今一歩足りていない。絵だけじゃない。人としても。何より過去に、大切な友人を酷く傷付けた、助けてなどいない。その罪悪感やら背徳感やらが果てしなく漠然とする。果てしなくなる前に、あと一歩、足りていればよかった。
 下手な正義感やら高徳感はとっくの昔に捨ててしまった。今更ながらにあの頃のほうがまだ、息をするのが楽だった。感性に、逃げ場があった。

 ただただ、本心を言うならば。
 今も昔も蛍は空太にとって唯一無二の友人であるはずだ。しかし、今となってはそれを大声で言うのは、なんだか気が引けるのだ。

 傷心はしていない。自分は、傷心など、していない。

 ただ、ページを捲るあの指や、自分の絵を見て目を細める姿はいつも通り変わらない蛍だった。それだけが、腹の底なのかもしれない、ナチュラルなのかもしれない。だとしたら俺はいっそ、この池にでも沈められたほうが楽だ。

 邪な弱さに心底うんざりしながら、取り敢えず空太は食えそうな野菜を抜粋して庭から収穫した。恐らくは天ぷらだ。

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