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 まだ残った煙草を消した蛍が急に立ち上がり空太の背後に回ったかと思いきや、突然抱きついてきて臭いを嗅いできた。思わず空太はハイライトを指から落としてしまう。

 何してんの。

 言おうとして後ろを振り向くと、なんとなくな上目使いに言葉は喉で消化されてしまう。

 それから再び蛍は人の肩を借りて立ち上がったかと思いきや、髪というか頭皮の臭いを嗅いでいる。これはなんだ。何をされているんだ俺は。どんな顔をするのが果たして正しいのか。

「蛍ちゃん、何をしてるの君は」
「ん?んー」

 漸く蛍は空太の頭から顔を離して目を合わせる。

 あ、なんか思い付いたみたいな興奮気味の、キラキラした子供みたいな目をしている。何か良いアイディアでも浮かんだのだろうか。

「いやぁ、この臭い、空太の臭いじゃなくてハイライトなのかなと思って」
「は、はぁ、え?」

 こいつは一体どうしてしまったんだろうか。というか。

「そんな臭い?」
「うーん、まぁ煙草臭いと言うかね、何だろう、クセはある」
「それはなに?」
「なんて言うか芳香剤に近いのかな?何だろう、でも煙草だとはわかる」

 とことん追求をやめない、そして少し、変わり者だ。

「上柴先生…、流石にその冗談はキツいっす」
「え?」
「ほら、君は、その…」

 というかどうして自分はこんなになんかドキドキしてるんだよと空太は内心でツッコミを入れるが、元凶である蛍は至極疑問そうに首を傾げた。

 全くなんなんだこいつは一体この生き物の破壊力は。蛍ってもう少し何か、絶滅寸前くらいに儚い虫だろうよ、なのになんなのよウチの蛍は。破壊力ハンパないよ、それこそこっちが滅ぼされそうだよ精神を!

 なんと言い表していいのか空太にはわからず、そして何故かちらついたのは、

『その欲望に満ちた薄い影がすべてを物語った。彼の艶は紫煙のように細く儚い。』

 という、紫煙の、濡れ場というか艶っぽいワンシーンの一文だった。おぉ、これだったのか上柴先生、絶対違うけどなんか俺でも今、君の文が身に染み渡ったぞ軽く。

「上柴先生…、鼻血もんですわぁ」
「は?」
「いやだ俺なんか変な感情」
「どうしたの空太、気持ち悪いよ。エロ本でも読んだの?」

 エロ本!

 まさかの、この、なんか世間知らずな、しかもなんかそういった単語から一切無縁の幼馴染みから聞いてしまった単語に今度は相当なショックを受けてしまい、頭痛がするような気がして空太は眉間を揉んだ。

「ごめんなさい俺がすべて悪いのです。蛍さんはそんなはしたない言葉を俺の前で口にしないでください」
「…大正のお母さんみたいだね」
「あぁぁ!てかお前のせいだよ!腹減った!作るね!蕎麦!天ぷらだよ!」
「はーい」

 蛍はおとなしくまたちゃぶ台の原稿用紙に向かい、万年筆を握った。空太は立ち上がり、しかしながらなんとなくクセになるその儚い姿を眺めて息を吐けるあたり、やはり自分はどうにかしているなぁと思った。

 お互いにそれからは無言で作業をした。万年筆が走る消え入りそうな音、包丁が野菜を裂いたり、揚げ物をしたりする音。

 日常はいま、日がな休日と仕事と銘打ったプライベート。ここには微かな壁がある。パントマイムくらいの、曖昧な、ぼやけた空気のアクリルが。

 考えてしまえばいつでも明るくはなくなってしまう。その日その日、会うたびの少しの空気と溶かす何かと、こうして個々になった瞬間に目の前の相手を思う感情と懐古。

 思ったよりも二人は互いを曖昧だと見ている。関係なんて物は、情という物は他者が計り知れないからだ。
 しかし本当のところはどうなのか。
 それもまた二者ではわからない。ジレンマや鎖はそうしてコントロールを失ってしまう。

 気付けばお互い10年以上の仲であり、これを引きずっているとも、繋がっているとも言い換えることが出来るのに、言い換えてしまえば二つの言葉は意味が違ってしまう。
 ならば結局はお互いの気持ちなのだろうが、果たしてそう言っても良いものかどうか、蛍にも空太にも最早わからない、解き明かしたくないのが現状なのだ。

 今はただ、幼馴染みの画家と小説家。もしもこれから上柴楓が出版社を去ってしまったとき、画家と小説家ではあるが、だからなんだと言う話になりはしないかと思えてしまう。各々でやって行こうというのは、果たして、どういう意味になってしまうのか。
 お互いからもう、解き放たれてやっていこう、自立しようというのは前向きなのか、そうじゃないのか皆目見当がつかないが、下手すると蛍はそれを望んでいるのではないか。

 蛍は蛍でどこか、まだ、と言って欲しいような、もういいよ、と言って欲しいような、微妙な心境だ。だが空太には正直こちらから、もういいよ、と、言ってあげたいが、それはこちらから言えた義理ではないのだ。

 互いの心配や不安や哀愁が漠然としていて今に至っている。本能だけで言ってしまえばどちらも、離れたくない相手なのに、それを言うのは間違いなのだと諦める。それがズルい事だと結局苛まれながら、あれから長い月日を、過ごしてきた。

 青春の傷は、思うよりも深い。真相心理にのめり込む。大抵は、治らず発作を繰り返してしまう。
 自殺を繰り返してしまう渚の心情は、そんな蛍をありありと書いていた。だが書いていて当の蛍は嘲笑してしまう。

 人は案外死ねないんだよ。
 書きたいのはそこだった。
 人は案外死ねない。それでいて死ぬときは恐ろしくあっさりとしている。明日が色褪せることなく世界は、廻ってしまうのだ。

 死にたいと、思えるうちは、それを渇望しているうちはまだ、生きる余力があるほどの体力があるからだろうか。自分は答えに行き着かない。恐らくこれから、何度首を吊ろうが手首切ろうが薬を飲もうが、着かない。
 渇望しなくなった頃に考える方法の方が確実だ。簡単なんだ、そうなれば死ぬことは。

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