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「君のそれはジャンパーなの?」
「え?」
「いや、分類?的に」
「うーん、コート。種類もステンカラーコートって言うくらいだし」
「なにそれ聞き慣れない。フッ素加工…チタンコートみたいだね」
「え全然わかんないその感覚。
 え逆によ?蛍のそれは何?羽織イン羽織なの?」
「は?」

 何を言っているんだこいつは一体。

「そもそもなんの逆説なのそれ」
「あごめん、うん。言葉の使い方間違えました。
 えっとね、蛍ちゃんのいま着ているなんだろ、ポンチョみたいなやつあるでしょ?」
「えポン…なに?」
「あーあー、ごめん、うーんとね、うんそう、コートみたいな上着あるでしょ?それはなんなのって。それは分類的には羽織なの?」
「これはコートだよ。ムササビコート」
「なぁるほどね!」

 漸くお互いが納得。かと思いきや。

「そのポンなんちゃらってのはなんなの?」
「これだよ」

 最早これはゴールがない。仕方がないので空太はケータイで検索して蛍にポンチョの画像を見せた。
 「これはムササビコートではないの?」という蛍の疑問には、「日本語じゃないから」と返した。

「あぁ、なるほど」

 それで納得してしまうのかと、やはり蛍の妙な世界観は計り知れないなと空太は思った。
 まぁこれには慣れたのだけど。

「さて行こうか散歩」

 そしてまた何事もなかったかのように言う蛍のこれは、一言で言うなら『マイペース』というやつだけど。

「そうだね」

 ふと笑って返す空太の姿は、蛍には奇妙で仕方がない。何か可笑しかっただろうか。

 しかしまぁ、さっきまでのお互いの、言い知れぬ、なんとも表現しがたい溶けかけた霜のような泥濘んだ覚束無さは両者の間になくなった。少しばかり、心に陽が照ったのだろう。

 襖を開ければ夜が照っていた。闇は薄い。朝の訪れは恐らく遠からず、しかし思ったよりは長いはずだ。

 縁側に二人で座り、空太は煙草に火をつけた。

 あれから蛍は、仕方なしに寝室前の縁側に灰皿を設置した。ふと見てみれば、それは空太の為に設置したはずなのだが、案外セブンスターの吸い殻もあるようだ。
 煙をぼんやりと、夜の鋭い空気と共に吸い込んだ。肺と喉を侵食する何かが生々しい。右と左には本当に呼吸器官があると知るのはこんなときだ。

 星が散りばめられた夜空を眺めて空太は、
あぁ、カメラを取りに行くのが面倒だ。
 と感じた。宇宙の塵や惑星は確かに綺麗なのだけど。これが回顧なのだと知るのは少し、写真に納めるのは勿体ない気がしてしまうのだ。

 結局写真は撮った次の瞬間は懐古だ。だから空太は、写真は好きだが絵にしたい。絵は、何度でも描き足せるから。そして思いのまま感性に乗せられる。過去の作品なんて言い方はセンスがない。いつだって呼吸が出来る創造なのだ。

 しかし写真は違う。その瞬間しか切り取れない。それもある意味では美学だが、空太はもう少しだけ貪欲でありたいと思うのだ。ある意味、希望なのだ。
 だけど。

 蛍は夜空に昇る、白い線香のような細長い煙を見て思う。
 今空太は、こうしてぼんやりと星を眺めて何を思うのだろうか。

 空太もまた、同じことを考える。蛍はいつも一人で煙草を吸いながら、何を考えてこの夜空を眺めるのだろうと。

『俺の死因など、所詮くだらないだろうから、死ぬときはお前の前から猫のように、痕跡すら残さずに死にます』

 いつかこの庭で、こんな風に星が綺麗な日にとある人に言われたことがある。

 ふと、蛍が横で、まるで何かに呼び寄せられるかのように静かに立ち上がったのがわかった。横目で見ればただ、なにもなく空虚を見るように夜空を眺める蛍が不穏に感じた。

「蛍?」
「明日は、晴れるかなぁ」
「…どうした?」
「いや、」

 苛む原因がわからない。
 煙草を揉み消すと、蛍は空太を見下ろし薄く笑った。

「この家、広いと思わない?」
「…うん、まぁ」
「かぐやは寝てるかなぁ」
「蛍、どうした?」
「…別に」

 そのまますたすたと右手側、池の方へ歩き出した蛍の後を追うように空太もついていく。

 そこから何を話すわけでもなく、池まで少し歩いて、急に蛍が池の小さな端の真ん中で立ち止まった。しゃがんで水面を眺め、「ここで」と、語りはじめる。

「あの人、一度ここで、顔を沈めていたことがあった」
「…うん」
「母と喧嘩して、泥酔して」
「うん」
「小さいながらに凄く、怖かった。何が怖かったって、しばらく起きなかったんだ。でもそれは、母の気を引きたかっただけで、それで」
「蛍、」
「本当に死んだのかと、思って少し自分が安心したことにも、子供ながらに、なんか…」
「蛍…!」

 思わず友人の手を引き、空太はそのまま抱き止めた。
 このままでは彼は、どこかへ行ってしまうのではないか、そんな危うさを帯びていたから。
 彼の少し低い背は、丁度頭頂部が顎辺りに来る。髪を撫でながら、だから生きているのだと実感した。
 心臓の音が哀愁だった。この幼馴染みはこうして自分を引き留めてしまう。

「どうして…」

 あの時も目覚めて最初に側にいたのは空太だった。自分をこの世にどうしても引き留めるのは、彼だ。

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