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『蛍と言うのは、消え逝くような名前なんだな』

 かつてそう評した人がいた。

『君の父が残したらしい。今や君の父に苛まれ、俺は君の母とは結ばれずにいる。君は、しかし恵まれている』

 あの男は、そう。

「父さんが、」
「やめよう蛍。
 忘れていいんだ。もう昔の話じゃないか」
「空太」

 どうして。

「どうして俺はそれでも生き残ったのか」
「…はっ、」

 離れた幼馴染みの顔は、
懐古に苛まれ、昏睡していた。

「あの時死んでもおかしくなかった」
「…蛍、」
「母が死んで父さんが死んで、どうして」

 答えられなかった。

「確かに聞いたんだ。
 君は、君のせいで俺はこんな道を」
「やめろよ!」

 思わず空太は怒鳴ってしまった。
 はっとして蛍の顔を眺めれば、夜空の光に、彼の瞳が輝いていた。

「そんなわけないだろ…、あんなやつ…あいつは、結局お前の何者でもない、ただの」
「でも、母は…あの男を愛していた」

 息を呑んだ。

「例えあの人が望もうが、そうでなかろうが」
「蛍、」

 ふらふらと、そのまま元来た道へ歩む蛍の後ろへ、ただただ着いていくことしか出来なかった。

 彼の境遇を思えば、さぞかし居心地が悪かったのだろうこの家に、どんな形であれ引き戻したのは自分だ。

 蛍は、所謂連れ子であった。
 この家の当時の当主、浪川裕次郎と言う男が、飲み屋で引っ掛けた女が蛍の母親である。

 自分はずっと言われ続けた。生きている意味を幼い頃から問われ続けた。

 父と呼べば無視をされる、先生と呼べばなんとか口が聞ける。
 母親の悪口も散々あの人から遠回しに言われ続け、自分とは何かと考えながら閉鎖的に生きてきた。

 今となっては忘れた一言がたまに、ふとした瞬間に甦る瞬間、発作のような眩暈が起きる。治まれば、その一言など綺麗さっぱり忘れているのがもどかしいような、よかったような気持ち悪さでまた吐いてしまう。
 ずっとそれに苛まれてきた。
 今更死にたいとは言わない。ただ、疑問なのだ。
 生きている意味はなんだ。と。

 あの人ももしかしたらこの境地だったと考えるなら、この寂漠は今更わかってやれるような気にはなるのだ。

 しかしどうだろう、今の自分は。
 何故こうして友人を悲しませるのだろうか。それが目的ではない。
 ただこれもまた自意識過剰な気がしてしまう。

 溜め息は殺せる、感情も押し止められる。
 ただ頭が悪い、自分を何度も殺せないような気がしてしまう。

 先に寝室に戻ってコートを脱ぎ、引き出しから睡眠薬と精神安定剤をこっそり取り出した。

 空太が戻るのと入れ違いに台所へ向かい、まず最初に薬を手に取れるだけ取って酒で流し込み、そのままその一升瓶と陶器をふたつ持って寝室に戻った。

「蛍?」

 コートを脱いで立ち往生して部屋の前で待っていた空太に、蛍は笑顔で酒瓶を見せ、「眠れない夜に」と、酷く詩的な一言を吐けば、友人は少し安堵したような表情を見せた。

 それから一杯ずつ酌み交わし、「書く気になった」と、煙草に火をつけながら文机に向かった。

 空太の寝息が聞こえるまでは意識を保った。
 それから文机に、倒れるように突っ伏した。

『俺は誰の遺伝子も求めていない』
『君は綺麗だ、穢れを知らないというのは痛く残酷だ、生きていて、価値がないね』
『楽しいかい?こんな微睡んだ人生』

 あぁ、そうか。
 別に、そう。
 歪んでいるんだ自分なんてものは端から、世界が歪んでいるように、真っ直ぐなんて、そんなものは幻想なんだ。

 やめてください。
 これ以上はもう。
 もう貴方を受け入れることも自分を嫌いになることも出来ない。

 泥濘していく意識の中、どろどろの思考回路ではっきり見た景色は。

『見てなよ、そこで』

 そう言って手足を縛られ押し入れに閉じ込められた記憶と。

『あっ、いやっ…』

 母親の快楽とあの人の快楽で。
 呼吸の音、喜びと苦しみの狭間。
 そしてそれから。
 押し入れに伸びるあの人の手。恐怖が勝って。

 人はなぜ
 呼吸をすることにこれほど長けているのか。

 薄れる意識の中、ただ、ぼんやりとそう思った。

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