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「蛍、」

 二人を追い出したさつきは、振り向いて蛍を見ると、打って変わって切なそうに愛想笑いを浮かべ、「今回は…」と切り出した。

「何があったの?」
「…別に」
「流石にねぇ…。
 まぁ、言いたくないならいいけど、こっちも来てるんだよこうして。3回目だよ?わかるって」
「ごめんね、ありがとう。次からは」
「そうじゃない。それが煩わしかったらとっくにウチら終わってるの。
 蛍のことわかってあげられないかもしれない。けど、息くらい、ちゃんとしてもいいと思う」
「うん…」

 息くらいちゃんとしてもいい。
 確かにそうなんだ。今はちゃんと生きているのだから。

「ちょっと、悪い夢を見たんだよ」
「悪い夢」
「こんなくだらないことでこんなことになって、いい歳して迷惑かけて、どうしようもないねホント」

 そう言って悲しそうに笑う蛍を見ると。
 過去を知っているだけに、さつきは思い出す。

「そんなことはないよ、ウチらはね」
「…そうかな」
「他でやったらそりゃそうかもしれないね。けど仕方ないじゃん。蛍ちゃん人間だし。私はちっちゃい頃から蛍も空太も知ってる。だから、いいの。変に気をここで使かわなくていいから、そのかわり他で使わないとね、大人になるとそれは仕方ない」
「さつき…」

 さつきは本当に。
 昔から優しい。
 だけどそれが。

「息苦しい」
「蛍…」
「俺はやっぱりあの時死んだのかもしれない。全てがどうも進まない。息苦しい。あの、車の中と変わらない世界がずっと続いてるんだよ、さつき。空太の…優しさもさつきの優しさも蓮の優しさも。おかしいかな。全てを巻き込んでしまう俺は結局あの人と同じ道を行きそうで、だから、だから、」

 いたたまれなくなった。
 そして、オレンジの視界と、優しい臭いがして。

 さつきは蛍を抱き締めた。
 蛍の首を絞めているのはその人でも過去でもない、間違いなく、蛍自身なのだと感じた。手を優しく握っても結局は、自分より蛍の方が少し体温が低いだけなのに、どうしてそんなに、苦しむのか。

 わかってあげたい。けどここには。
 あの窓越しの、一枚の隔たりがある。自分にはきっと全てを共有できない、計り知れない。自分は死ぬような思いなどしたことが、所詮はないから。

 そのさつきの暖かさは、それでも蛍には少し伝わった。少しの罪悪感はもちろん、蛍の鼓動と共にさつきは感じ取った。

「…ごめんなさい」
「私だって」
「さつき、」
「蛍ちゃん、でも私は。
 蛍ちゃんの書く話、好きだよ。今回だってよかったじゃないの。読んだんだよ。あれは蛍にしか書けない。ねぇそうでしょ?」
「ごめん、さつき、」
「蛍ちゃん、私は…。
 わかってあげられないんだ。蛍ちゃんの小説読んでも、蛍ちゃんに会って話をしても小さい頃から知ってたって何もわかってあげてない」
「もういいよ、ごめん、さつき」
「だからご飯食べよう。なに食べたい?」

 やっと離れたさつきは泣きそうだった。
 本当に悪いことをしたと思った。

 ふと。あの人は。
 あの人の境地はどうだったのだろうかと過った。あの人も、自分の母も果して何も心にこうして引っ掛からなかったのか、それとも、引っ掛かったけどあんな結果になってしまったのだろうか。
 だとしたらそれは、どんな心境だっただろうかと、蛍は思いを巡らせてみる。

 闇は暗かった。どうあっても底がない。泥濘と言うよりは混沌に近いような気がして仕方がなかった。

 しかしそれは意識の、成れの果てのような気がしてならない。今、自分ですら、みんなの優しさを受け入れられないところがあるから。

 色褪せる空気と浮遊する意識、ぼんやりした視界の中で諦めとも寂漠とも疲労ともつかない微睡みがそこにあって、自分と他者と記憶が混在した泥濘とゆっくりとした刻が流れ、薄れた酸素を脳が求めたあの瞬間、ただ漠然とそこに残った蛍の感情はただ一つ。

 死にたくない。

 意識が途切れて天井を見上げたときのやりきれなかった切迫はいつになっても消えない、どうして、死にたくないと多分本能が叫んだはずだったのに。どうして、こんなにも混沌と死になくなってしまうのか。それが心の痙攣発作と神経失調症を及ぼして震える、衝動的にあの日から、こうして何度も繰り返す。

 その度に蛍は見てきた。死んだ祖父や空太やさつきや蓮の悲しさを見てきた。その度にこうして切なくなる一方でどこか心が冴えてしまう。

 あぁ、またか。
 また自分はこうして生きているのかと。

 これは最早癖なのかもしれない。右利きや左利きと一緒。自殺癖。生きていないとやれない癖。

 回数を重ねる度にどんどん感情は冷めていく。自分など死んでも大差ない。わかっている。けれどもやめてくれない、本能が。悲しくなったら消えようとする、悲しくなくても咄嗟にそうする。ふとした情緒の泥濘で全て、犯行に及んでしまう。

 だから自分に誰も構わなくていい。
 多分これは誰にもわからない、振り向けない。
 わかって欲しくもない、触れられたら最後、多分自分は本当の死に方を、知っているのだ。

「遅いなぁ、あの二人」
「そうだね…」

 点滴の薬が残りわずかだ。まだ身体は倦怠を残しているけど。

「帰ろうか、蛍。二人もきっと、蛍ちゃんの家に向かったよね」

 そうかもしれない。

「うん、」

 そう言っては仄かに微笑み手を差し伸べるさつきの手を取るのは怖かった。人間の優しさは時に鋭利で残酷だと、こんな時にすら自分は詩的な文を思い付く。いや、こんな時だからか。いっそ清々しい。

 手を取って病院を抜け出したのはせめてもの抗いかも知れなかった。実のところそこまでの勇気ではないかもしれないけど、意味じゃないかもしれないけど。自分の帰る道だけは決まっている。この意思表示は確実だった。

 いいんだ。ここで抜けてこようが自分は所詮病人だ。なんなら精神障害者である。思いっきり息を吸ってやろうじゃないか、外で酸素を。消毒液ではない空気を。

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