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重々しい空気と、隣の友人の殺気が少し再燃したように感じる。何故ならその父の一言で無意識に、友人は蛍の袖の裾を強く握ったからだ。
「母は、…あの時死にました。貴方が、殺しました」
「まぁ、そうなるな」
目の前で酒を煽る父だけが、どこか挑戦的なような、少し楽しそうにも見える様子の軽い口調と態度。
あの時の光景は、なんだった。
疲れきった貴方と、「それの方が残酷だ」
あれは、自分を一人残して二人で心中してしまっては残酷だと、いう主旨に感じていたのだけど。
まぁ、それは理由付け、母を納得させるためだと、どこかで蛍はわかっていた。
だが目の前でこうも飄々とされると、やはりそうなのかと、絶望のような実感の暗闇を見る。
だがそこで逃げ帰ってはいけない。ここまで来てしまった、最早仕方がない。絶望の泥濘へ、足場は二度とない場所へ、踏み入れるしかないのかもしれないな、空太。
蛍は一度、あれから初めて微笑んでくれたその哀愁に空太は狂気に似た恐怖を感じた。
「先生、」
待った、それは多分。
行ってはならない、境地だよ、蛍。
「貴方はどうして、俺や…母を捨て、逃げたのですか」
「蛍、待った、」
「空太…、これは、泥酔だ。いつまで経っても酒気帯びでは、いられないでしょう…?」
「は?」
「ふ、ははは!
あぁそうですね。今の一言は刺さりました。俺の腹の臓物、掻き出してやりましょうか。
簡単だよ、蛍。
息苦しかった。起きた瞬間死んでねぇなって思ったら、馬鹿馬鹿しくなって全部捨ててやった。ただそれだけのことだ」
冷たい殺人の瞳。
しかし蛍は、この人の深い奥底にある、言い知れぬ溶けもしないドライアイスのような冷たい悲しみの靄に、気付いている気がする。
もしかすると、
木炭の火だと、その煙だと思って信じていたそれは、違う物なのではないか。
「何度も何度も、自我を殺して文を連ねてわからなくなって泥酔していく自分の心理は最早、何故生きているのか、こんな安穏とした世界は、それでも無法地帯なんだ、誰も俺を知らない、本当は俺は不眠症で、最早なにもやる気がなくて。死んだ母に詫びることも、流産したらしい弟がいたらしいことに、そんな感傷すら俺にはなく、大学で成績が良いだのなんだの、でもそう、何にも感化されないほどに俺の感性なんて物は存外無視をされ続け、父に縛られる」
それぞまさしく。
「自意識過剰じゃないですか」
「構わないさ、そうでもしなければここにいられなかった。俺は養子だからな」
「…え?」
「母親はどうも遺伝が弱い、身体が弱いせいで本家から女中をクビになり、次男坊だった父が結婚してこの本屋を建てた。そういうことだ。
俺は元は涛川本家の、父の兄の末っ子だったらしい。流産に憔悴した実の母に殺されかけたのを父が引き取った、まだ小さいうちにな」
「そ、れは」
「それを知ることになった、聞かされたのは15の頃。父の中ではまぁ、元服だったんだろう。その頃に、実の父である父の兄が死んだのもあっただろう。いっそ言わないで欲しかった。
世界が一変した瞬間だった。信じたものが全て、零れ落ちた気がした。
何を信じていいのかわからず、ただ家には腐るほど本ばかりある。
気付けばそのまま心理を得ずしてだらだらと大学、大学院まで行き、やさぐれて遊んでいた時期に出会ったのがお前の母親だよ、蛍」
確かに覚えている姿は、いつでもこの人はそう、くたびれていた。
「感動したさ。10も歳の離れた女に。だがそいつが言う。俺の子供が出来ただなんて。だから責任を取れと。
はっきり言って俺の子か、わからないし何より俺の遺伝子を、受け入れろだなんて拷問だ。しかし父はそれを許容した。そしてお前を可愛がった。
俺はお前も父も正直、気持ちが浮いたような目でしか見れなかった。そんな自分に嫌気もあった」
曲がっている。
しかし、それもまた、純粋に、恐らくこの人はそう、自然の力で曲がってしまった鉄のような人なのだ、そう、無気力に感じる自分と、
あまりの壮絶な拒絶と心の絶叫に、目眩のような感覚、言ってしまえば頭が廻らなかった。
自分は今、何を、言われているのだろうか。噛み締めようと酒を飲む。
酒と共に浸透していく父の言葉の意味は、理解が難しいが、やはりわからなくは、ない。
だがお宅も、だからロングヒットだとか出せない惰性作家なんだよという批判と共に、目に見えた、ちゃぶ台に置かれている薬の瓶に蛍は手を伸ばして手の平に余るほどそれを出し、煽るように口に含んで酒で流し込んだ。
一瞬の動作に空太はそれを止められなかった。そもそもそれがなんの薬か、よくわかっていない。
だが不穏だ。頭を過ってしまう最近の事情。もしそうならどうしよう。「ほ、蛍!」と、怒鳴ることしか出来ない。
「空太、君は優しすぎる。人は、簡単に死ぬけど死ねないように出来ている」
そう言って空太を見つめる瞳は綺麗な月夜のように、鋭く優しい。
「貴方も俺も結局、自分は愛せない。呪縛は父親。血は争えませんね」
静かに言う蛍に空太も裕次郎も閉口した。話の核心を、そこに見た気がした。
「私は人を、殺してしまうような文学は好まない。息の根を残してきた自分にしか書けない、あんたのように、自分を何度か殺せたら、楽なのかもしれませんね」
刃体は6センチ程度、しかし刃渡り15センチくらいの果物ナイフが一気に腹あたりを刺してきたような気分。ならばこちらとてそのナイフ、抜き取ってやろう。
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