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翌朝、目覚めた蛍と空太がやけに清々しいような雰囲気だったのを見て。
まずはさつきが、蛍のICUからの離脱を図るべく迅速な対応を取り、わりと無茶を承知で一般病棟へ移る。
これには旦那、蓮も大活躍し、蛍に身寄りがないのを大いに売りにするという、最早クレーマー理論で、しかし大人のような論じ方で病院側へ我を通してしまった。
当の本人たちもまさかこんなものでいけるだろうとは、正直思っていなかったため、臨戦態勢だった蓮もさつきも拍子抜けしてしまったが、病院側に言われた排他的な回答に腑に落ちないながらも悲しみ、納得せざるをえないまま、自分達の望んだ結果を得た。
「血液提供者であり唯一の肉親と思われる涛川裕次郎さんが、どうも、自分が息子を怪我させたのだ、だから蛍さんに自分が近付けば何を自分が仕出かすかわからない。面会は遮断したいと申されました」
これには言葉を呑んだ。
泣きながら電話を寄越してきた空太の話と、どうやら違っている。
そして蓮とさつきは蛍と古い付き合いながら、その蛍の父である男に会ったのは実は初めてだった。その男が今回、救急車を呼んだのだと言う。
一緒に病院まで救急車で乗ってきて、いつの間にか姿を消してしまった着物姿の線が細い、確かに少しだけ、言われてみれば蛍に面影があるようなないような、淡白な顔立ちの白髪混じりで、品はあるがくたびれのようなものが見えたあの男がもしや父親かと、病院までわからなかった。
今日に漸く男の正体を察して、二人は唖然とした。
あの男が諸悪の根元なのかと、さつきは怒りをぶつけられない思いに辟易としながらどうしようもなく、医者の話を聞き終えて部屋を後にした時、人知れず蓮の腕を握り、俯いた。
「…でも、わかるような気がする」
「…はぁ?」
「だってさぁ、なんだって蛍の父親はずっと、ぶん投げ続けてたくせにこんな風に、息子に血まで提供してまた消えたんだろうね」
「それは、」
「当然なんだろうね。親子なら。
まぁなら、どうしてこんな結果を生み出して行くのか。
それってきっと蛍と変わらないんじゃないか?ただ、いま彼のことを呼び止めた人は誰もいなかった、それだけで」
「…蓮?」
「さつき、俺さ。
実はずっと蛍のこと好きだったんだよ、」
突然のしれっとした蓮の告白に思わずさつきは「あぁ、そう」と返しそうになってしまった。だが、
「んん?」
意味がよくわからない。一度躓き、
「恋愛感情でだよ」
蓮の言葉の意味を漸くさつきは理解して、叫ぶように「はぁ!?」と言ってしまった。
蓮が嗜めるように「ほらほら、病院の廊下だから」と言いさつきの頭を撫でる。
待てや、はぁ?
「でもそう思ってたんだけどさ」
「待て待て待てちょい、帰ってこい説明して!」
「いやだからね、俺は高校の時一度蛍を美術室で押し倒したことがあって」
ダメだこいつ。
「待ってぇ、私が悪いの?ついていけないんですけど、はぁ!?」
「うん、じゃぁ黙っててたまには。お前ってそーゆーことある。
いや綺麗な人だなぁと思って。彫刻刀持って水道の水出してたのが俺の心に刺さったわけよ。
でも同時になんだろ、あぁ、この人そういう人なんだって思ったら駆け寄ってたんだよね。なんなんだろ、助けようなのか、なんか見ちゃいけなかったのかなとか色々一瞬にして頭を過って」
至極真面目に語る夫の生態系、いい加減ひっ叩きたい。けどなんだか本気で疑問符を張り付けて懐古に浸る夫に、まぁ、こいつはそういえばとんでもなく突拍子もないアホだったと思い直し、さつきは衝動に耐えた。
「本当に事故だった。その彫刻刀を取り上げようかと思ったら蛍が身体を引いてさ。それで二人して床に倒れてなんかの拍子に手首がちょっと切れちゃって。
ただ俺、ちょっと興奮しちゃったのもあってさぁ、最初気付かなかったんだ。掴んだ手首の湿り気とか、そういう」
「…そろそろ私耐えられない」
「ごめん、けど待って。
けどその時に「何がしたいの?」って蛍に言われて、我に返って事なきを得た」
「本気でぶん殴っていい?」
「殴ってもいいけど軽くね。じゃないと離婚じゃん。
けどそれが痛烈だった、ただそれだけの話だった。やっぱり第一印象って凄いと思うんだ」
「離婚じゃん」
「嫌だ。
だからこれで最後ね。
恋か愛かで言ったらさつき、愛してる。君の不細工な寝顔だって可愛らしい夜の秘め事だって、男より男らしい、けど友達思いでけしてお人好しではないけど優しすぎる苦悩だって」
「え、」
えぇ。
複雑なんですけど。なにそれ。
「蛍も空太も、閉鎖的な俺にとっては失いたくない友人だよ、さつき。君にもそんな一面はあるけど、」
「あぁぁもう!」
焦れったい。
そう、しかしそうなんだ。
「あんたねぇ、男として情けないわ」
「…そうかも」
「でも…」
笑ってしまった。
今度は困ってる。
今度は笑っている。
互いの事情がちぐはぐだけど。
さつきがふと手を取り振り返って微笑み、それから先へ歩いて行こうとするから。思わず後ろから抱き締めてしまった。
だってこれはもう、仕方のないことだ。手の中に収まるさつきは温かくて、切ないほど良い匂いだ。
「…好きだよさつき、」
「公前でしょーが」
「関係ない。誰もいないし。君を愛することに代わりはない」
「蛍ちゃんは?」
「好きだよ。だけど、さつきだって好きだよ」
「なにそれ」
振り返って夫を見てみれば。
鼻の下が伸びきれていない、優しい表情だった。
「俺たちが二人でひとつならあいつらは、二人で一人分でしょ?」
一瞬蓮の言葉はよくわからなかったが、咀嚼してみればなるほど。
「じゃぁ早く行かなきゃね」
「そうだね」
きっとしばらくはそうやって付き合っていくのかも知れなくて。
何も、途方のないことを言うわけではない。ただ少し寄り添うだけだ、こうして。
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