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 苛みは、最もなく身に降り余る。
 多分、身に不相応だったのだろう。歳月は過ぎ行き、少しばかり疲れてきていた。

 だがその疲労の原因は案外単純なものだった、それがわかってしまった自分には少し、身が余るくらいに空虚がふと、浮遊して見えてきたように感じるのだけど。
 忙しなくそこに流れ込んだ、血液に近い暖かみは何故か、皮肉にも疲労の原因が及ぼした者が残してくれたらしい物で。

 ただ。

 病室を移って少ししてから空太が入ってきた。さつきと蓮が忙しなく物を片付けてくれていた矢先、少し一息吐いたころに、扉を閉め、一息吐いて空太は微妙な明るい表情を友人たちに向けていた。
 昼の日差しが、ここに照っている。

「悪い、手伝えることもなくなっちまったか」
「そうだね…空太?」

 少し爽やかなような哀愁を、3人は空太に見る。不審に思う蓮が一声掛ければ溜め息を長く吐き、「…蛍、」と吐き出した。

「…|林《はやし》さん、あれから行方がわからないって、野山さんが」
「…あぁ、」
「林さん?」
「うん、その…。
 作家であり、俺の、父親」
「あぁ、」
「え、あのおっちゃんが?」

 まぁ確かに。
 少々くたびれた人だった。

「…あのおっちゃんって、さつき、会ったこと…」
「初めて会ったよ昨晩。蛍とはちっちゃい頃から一緒なのにね」
「あぁ、会ったんだ」
「救急車呼んだって、蛍の家の前に二人で来たとき言われて…。一緒に乗ってきたんだけど…。
 いつの間にかいなくなってた。
 なるほど、作家さんだったんだ」

 だから会ったこともなかったのか。
 なんとなく蛍を見ていればわかる気がする作家の生態系。さつきはどちらかと言えば蛍を家から引っ張り出していたから。だから会ったことがなかったんだ。

 色々なことが、漸く形を成していくような感覚に陥る。解っていく毎に、なるほど、そうかと理解は出来るが。

「…なんでだろうねぇ」

 やはり納得はいかない。

「…あの人は、そういう人だから」
「…どういう」
「猫みたいな…人。
 ほら、俺、猫アレルギーかもしれないんだよ、さつき。実はさ。だからじゃないかなぁ」
「…なによそれ、蛍ちゃん、」
「いいんだ。
 知ってるかいさつき。猫はね…。
 死ぬときは勝手にいなくなる、死ぬ瞬間は誰にも見せないっていうのは、有名な話だが。
 出産っていうのも同じで、子供が生まれる瞬間を見られたと感じた野良猫は、その子供を異物と見なし、食い殺すんだよ」
「え…、」

 そう言ってさつきを見つめた蛍の目には、諦めが見えるようだった。

「あの人にとって俺は異物だった、それだけだ。
 だけどあの人は俺を食い殺していない。これが真実なのかも、しれないね」

 そんなことって。

「蛍、それは」
「今更なにも悲観することなんてない。そうやって、生きてきたんだ」

 そう切な気に言うベットの上の友人は、少し俯いて何かは考えているようだった。

「蛍…君は」
「空太、あのさぁ」

 遮って蛍は続けた。顔をあげたその哀愁に照らされたような薄い笑みは、やはり美しく。

「今回で終わりにしようよ、空太」
「…え?」
「君は…売れないけど、俺の中では素晴らしい画家なんだ。もう、いいでしょう?」
「なんで…?」

 そうなった。

「…作家として、文を連ねることは簡単だ。だがふとしたとき…そうだなぁ、こんなとき、なんでだろうね、言葉なんて、ないもんだね」

 君はいま、一体何を考える?

「でもね空太。だからこの1話、見届けて欲しい。どこへ行くのか、誰に行くのか。これは、作者には案外、わからない事情だから」

 もしかして蛍は。

「…辞めるの?」
「…さぁ、どうかな。
 少なくとも、俺はいま語る。この、最終話、これを編集、出版するまでが作者の仕事だと思う。それが作家の生命だ」
「…蛍」

 やはりそうか。

「…空太、どうやら君が残してきたヘタクソなツケが今、ここに来たな。
 蛍、察するにさ。君を見ていて思うのは、君の創作はおそらく、と言うかクリエイターのクリエイトは、食いぶちであり何より、呼吸だ。
 俺もさつきも読者だ。君らの息遣いなんてわかるもんで、君らは息遣いを理解し合っているんだけど。
 いまいち反応がないのはそうだね、その答えは各々わかったのかもしれないね。
 さつき、帰ろう。俺たちは待っていよう?」
「蓮?」

 そう言うと蓮は、少し笑って病室を立ち去ろうと歩みを進めた。さつきも、心配そうな表情を残して後は旦那の背中を追う。
 ふと空太の隣に来たとき、蓮は肩を掴んで言う、「蛍を死なせたら空太、一生恨んでやる、意気地無し」それだけ言い残してさつきと蓮は出て行った。
 なんとも、鋭い一言だった。

 そうだ。
 そうなんだ、わかっている。

「…蛍」
「…なに」
「…まずは1話、書き上げて1冊作ろう。
 出来が満足しなかったら俺も画家を辞める」
「…は?」
「なぁ、俺はさ。
 ナメるなよ、仕事は選ぶタイプなんだ」

 睨むように言う空太の瞳は。
 初めてだった。そして、痛烈に腹に響いた。
 ただ、だからさぁ。

「…こっちだって」

 はっきり言えよ。
 だがそうだ。
 引っ張り出せない、俺がいるからだ。

 互いに睨み合うように見つめ合えば、黙って空太はベットの横に漸く座り、自分の鞄からスケッチブックと鉛筆を取り出した。

 そうですね。はい。

 それを見た蛍も意地になり、黙ってベットの横にある引き出しから原稿用紙を取り出す。

 後は黙々と、ただ黙々と。
 互いにぶつけるように、逃げるように。
 呼吸のように、視線のように。

 情緒をただただ走らせる。

 紙の上にある、再現。

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