6


 夕方まで俺は一人、また籠って今度は|天変斯止《テンペスト》の編曲を考える。

 あれには、今回の低い濁りやら、しかし例えるなら廿四孝《にじゅうしこう》とかよりも軽快で、しかし重みがある感じがいい。
 しかし三味線は一本ではない。走らずともよいか、調和が難しい。

 暴風雨を思い浮かべる。雨滴をそこに奏でる。

 指が切れそうな痛みを感じたときにふと、「依田ちゃん」と声がした。暴風雨を物ともしないはっきりした耳障りに、はっと我に返ればピインと、3の糸が切れた音がした。

「あっ」

 見つめた先の襖に立つ優男、ひとつ年下で穂咲兄さんの弟弟子である竹垣勇咲太夫が、それを見て表情も変えずに短く言った。

「切れた」
「うん、切れた。
 やぁ勇咲くん、どしたの?」
「いやぁ一応挨拶に伺ったんですぜ、雀次兄さん」
「ん?」
「やっぱりね。いつから籠ってんの?」
「んとー…昼くらい?」
「ホントに鬼のようだね。見てないでしょ演者発表」
「あっ、そうだ」
「あんたさぁ」

 勇咲は笑った。そして言う。「暴れるなって言ったじゃない」と。

「え?暴れてないよ?」
「へぇ。まぁどっちを怒らせたんだろーね。
次、俺と組むの、あんた」
「あ、あぁ。勇咲くんになったんだ」
「あら?」

 勇咲は興味深そうに目を細め、密会場に入ってきては、俺の向かい側に座る。俺は取り敢えず3の糸を張り替える。

「その感じだと、兄さんと喧嘩したの?」
「いや、どちらかと言えばお宅の師匠と、かもしれないけど」
「ははぁ、配役聞いてきたら?なかなか作為的な物を感じて挨拶しに来たんだけど」
「え、教えてよ何?」

 勇咲ははいはいと、袖口から書面を一枚取りだし、広げた。


昼の部

菅原伝授手習鑑《すがわらでんじゅてならいかがみ》 桜丸《さくらまる》切腹の段
竹垣穂咲太夫
鷹沢雀生
ツレ 鷹沢雀三

夜の部

本朝廿四孝《ほんちょうにじゅうしこう》 奥庭狐火《おくにわきつねび》の段
竹垣勇咲太夫
鷹沢雀次


「うっわぁ…」

 底意地が見えるお師匠方。
 なるほど、やはり俺では穂咲兄さんの役不足、逆もまたしかりで解散なのかこれは。

「まぁ俺としちゃぁ非常に刺激的でいいけどねこれ。人形もほれ、依田弟だよ八重垣姫」
「えっ、」

 見てみる。
 八重垣姫、主遣いは俺の父親を襲名した現、六代目鵜志《ていし》師匠、左遣いが弟の鵜助《ていすけ》、足遣いはその弟弟子であり弟と同い年の研修上がり、鵜一郎《ていいちろう》。

「これ間違って書いちゃったんじゃないの師匠方」
「あり得なくはないけどあり得ないでしょーよ。どう考えても穂咲兄さんと俺、演目が逆だよね。けど雀三がツレだから」
「うぅん…マジか」
「艶の勇咲、始めまーす。芸道の鬼さん、俺が亀甲縛りだからって苛めないでね」
「いやんな余裕ない。奥火とかマジでもうんな余裕ない」
「大曲だからねぇ。頑張って、
 俺前回の清姫でだいぶ死ぬかと思ったんだから。死に際継続だわ」
「ちょっと勇咲くん、これいつから始める?」
「んーいつでもいいけどまぁちょっとやる気あるからやっちゃう?今。あんたが死ななければね」
「うーん軽く指切れそう」
「はい、じゃぁコンビ結成記念に飲み行こうか」
「亀ちゃんの店はやだよ」
「わかったよ、俺の行きつけでいい?
それだったらきっと途中で呼べばマルコメ蟹味噌も来てくれるよ」
「マルコメ蟹味噌…」

 誰だそれ。

「誰?」
「石河蟹蔵《いしかわかにぞう》だよ。今日千秋楽だから歌舞伎座。んでもってマルコメは自粛修行中だから」
「あぁ、ハゲか」

 てか。

「ふっ、」

 あ、やべぇ。
 笑っちゃったら地味にツボを押してきたマルコメ蟹味噌。酷い。なんて酷いあだ名。けど的を射てる。

 「ふっ、ふふ、うぅっ」と一人で笑っていると「気持ち悪いね依田ちゃん」と勇咲が言った。

「じ、自粛修行てぇ、あいつ生きてんの?」
「大丈夫だよ、浮気バレまくっても飲み行って怪しい人にぶん殴られちゃうくらいの甲羅メンタルをお持ちだから、あいつ」
「あぁね、あぁね!」
「実際今回はまぁボロ雑巾メンタルになっちゃったみたいだけどね。タラバからカニカマだよ。もー穴籠っちゃって可哀想だしやっぱ誘うか」
「き、君ってなんて優…ふふふっ、はっ、」
「そーよ、俺って優しいんだから。
ねぇそんなにツボるかおい。依田ちゃんそんなに薄情だったの」
「あ、相方、捨てるくらいっ…ひっひ…やばっカニカマ」
「あぁあんたから振ったの。悪い男ね。あーんなご執心な旦那いないでしょうにはい、笑い止めて!電話するからカニカマ、間違えた蟹蔵に!」

 しばらくは「うっひっひ」と俺一人でマルコメ蟹味噌にウケながら、しかし当の勇咲はごく淡々と「あぁ、蟹蔵さん?元気?」と電話していた。

 古典芸能お友達網、流石。

 電話を切ればふと一息吐いて「まったく」と勇咲は俺に言う。その頃には俺の笑いのツボも浅くなっていた。

「さぁさぁ、聞かしてもらおーか依田ちゃん。悪いが俺明日からぜってぇ兄さんと目すら合わせらんねぇし密会逃げするからねマジ」
「そんな仲悪いのお宅ら」
「知ってんでしょー。入ってすぐ喧嘩して危うく殴りそうになっちゃったの。今しか言わないけどあのゲイ野郎嫌いだからね俺」
「えっ、そうなの兄さん」
「はぁ?依田ちゃん頭足りなくない?あんたの頭三味線でしかないのねホント。
 蟹蔵来る前にじっくり聞く権利あるよね俺。今回は飛び火の被害者だし」
「はいはい」

 取り敢えず三味線は解体してしまい、背負って楽屋を後にした。

- 32 -

*前次#


ページ: