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「…まだ忘れてくんないんだな、紅葉」

 答えられなかった。
 そんなに俺の音には迷いがあるのか。
 正直忘れた気でいた。だけど、結局忘れられていないというのはわかっていた。

 自分をわかっていない、確かにそうだな雀三。俺は俺をわかっていない。

「…若い頃よか、だいぶ丸くなったよね紅葉は」
「…そらぁ…」
「組んだ頃なんてさ。
 まぁ俺が言い出したんだけどお前の事はなんとなく遠ざけるというか、近寄り難いやつだったよなぁ」
「そうですか?」
「うん、凄く。
 ただ、あの頃の楽しそうな、渇望する二人の音は欲しいなって羨ましかった、いま思えばあの人ね。
 妬みから来たものだったかもな、俺」
「兄さん…?」
「なんせ研修上がりだ。家元としてはんなやつ胡散臭いじゃん。だけどわかってたんだよ、あの人のがあの頃、俺より上手かったんだ」
「…そんなこと思ってたんですか」
「まぁね。そりゃこっちも自棄になるさ」

 軽やかに笑いながら穂咲兄さんは言う。
 しかし次の瞬間には少し冷めた目で、「いまの俺は越えられたか」と聞いてきた。

「豊嶋月代太夫《とよしまつきしろだゆう》を」
「兄さん、やめませんか、」

 名前が出て、自分でも驚くほどに動揺した。

 わかっている、まだまだ、わかりたくない。

「紅葉、」
「穂咲兄さんは、穂咲兄さんやないですか、」
「そのわりにはさ」

 穂咲兄さんは少し寂しそうな顔をして微笑んだ。

「お前、なんか未練たらたらと言うか、悲しそうに言うのな…」
「えっ、」

 そんな。

「そんなこと、」
「俺はわりとお前に芸を委ねたが、やはりまだか。年齢すら、あの人と同じくらいまで来たのにな」
「兄さん、」

 違う。
 いや、違わない。
 これは一種の凝り固まった俺の拘りなんだ。わかってくれと言うのはおかしいんだけど。だからって、

「兄さんや勇咲が劣等に浸るのは間違っていますよ」
「それと一緒だろ、紅葉」
「何がですか」
「お前があの人に負い目やらを背負うのがだ」
「それは…」

 忘れろと?
 そんなこと、俺だってわかってる。

「穂咲兄さん」

 勇咲の強めな声がした。
 雀三と共に戻ってきたらしい。
 両者睨むように対峙した。

「…お騒がせしました。
 雀次兄さん、やりまっせ八重垣姫」
「勇咲、漸く立ち直ったか若造が」
「立ち直ったように見えますか、随分傲慢だ。あんたは雀次を捨て切り、雀三と稽古して切腹をマスターした方がいい」
「随分口の聞き方が悪いなぁ」

 穂咲兄さんが勇咲を鼻で笑った。はっきり言って雰囲気が悪い。

「あんただって拘る癖によく言うわ。まぁいいけど。
 依田ちゃん、話があるんだけど」
「え、なに、」
「勇咲兄さん、ほどほどに…」
「あぁ、俺は俺で拘ると決めた。雀三、だがお前が言うほど俺だって生温くない。一応プロだ、俺なりに上手くやる」
「…そうですか、」
「悪いな、俺いまイライラしてんだ雀三」

 勇咲はふと俺を見た。
 俺の予想と、本人の言葉に反し、わりと慈悲深さがある眼光だった。

 そうか、何か聞いたか勇咲。
 しかし俺はなかなかそれに反応出来ず、「じゃ、出てってください」と勇咲が穂咲兄さんと雀三に言うのをぼっと眺めるしか出来なかった。

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