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 淡水のような居心地に思考回路が停止する。受付、予定時刻から早30分。俺はただ何も考えずにクリニックの、灰色な風景の待合室に座っている。

 誰が書いたのかわからない、お絵かきのような|蜻蛉《トンボ》。それが沢山飾られ、微かに右耳から入る狂気的に絡み付くゆったりとしたオルゴール。

 これが精神を安らげるだなんて、頭の良い奴が考えることは気が狂っている。

 頭の片隅に、暴れそうなそれを置いておく。あとはひたすらに虚無感だ。ただ呆然と待つ。

 喉が乾いたな。

 そう思って一度席から立って心療内科のフロアを去る。すぐ目の前の自販機でコーヒーを買ってくる。

 ただそれだけで「|風折《かざおれ》さーん」と、大して心配でもなさそうに看護士は呼びに来た。

「先生が、」
「はいはい」

 看護士の背中に、眼鏡で少し白髪混じったやせ形の男が立っていた。

 担当医の、諏訪光博《すわみつひろ》先生。
 コーヒーを取りながら俺が先生を見上げると、「あとは引き取ります」と、看護士に告げて見下ろされた。

「彼、最後だし。貴方はお昼でもどうぞ。
 はい、風折さん。診察室に来てくださいね」

 コーヒーに対しての言及はせずに諏訪先生は背を向け、先に診察室に歩いていった。看護士はそれに「すみません」と頭を下げた。

 諏訪先生について行くように診察室に入る。
 二人になれば諏訪先生は、にっこりと人が良さそうに笑った。

 諏訪先生がデスクに座り、パソコンで俺のカルテを開いた。俺は得に何も言わずに椅子に座り、先生の問いを待つ。

「えぇっと…前回は…二週間前か」
「はい」
「薬なくなった?」
「はい」
「那由多くん、ちょっと飲み過ぎたね」
「だって」
「はい、」

 ふと諏訪先生が向き合い、両手で頬に触れ、ついでに下瞼を開けるように親指で下げる。じっと目を見つめている間、何故か俺は毎回息を止めてしまう。

「うん、やっぱ少し寝不足だね」

 手を離して漸く息をする。先生はそれを見て少し笑い、「いい加減慣れてよ」とゆったりと言った。

「効かないんだろうね。でも今触ったら右目がピクピクした。やっぱりこれは継続するけど2週間分しかあげないからね」
「なんで、」
「飲み過ぎるからに決まってるでしょう。自律神経も鈍っちゃうし」
「いやホントにそれ勘弁して欲しい」
「その代わり安定剤、1日2回のところ3回にするから。睡眠剤はそのまま寝る前一錠。それで様子見て」
「…あんた、何錠飲んだら俺が安定するかわかるの」

 1日に最近、倍の6錠だよ。お陰でたまに死ぬほど眠れる。睡眠薬なんていらない。だから欲しい。

「トンじゃうからダメだね。
 最近それとも、変わったことあった?」

 ふと諏訪先生は、俺の左手を然り気無く掴み、手首のリストバンドの中へ指を差し入れた。
 傷を確認するような手つき。思わず右手で諏訪先生の腕をぶっ叩いてしまった。

 だけど先生は至極普通。だからこちらが気まずいばかりで。

「髪も切ったんだね」
「…はい」

 えらく挑戦的に諏訪先生は俺を見て、「細くて綺麗なんだから、傷付けるのはよくないけど…」と言葉を濁らせた。

「それが落ち着くの?」
「…わかんない」
「じゃあいっそ止めてみたらいいのに」
「…わかってる」
「そう。まぁ、本能かな」

 特に否定はしないのだ。

「…最近、変わったことは、ハトコが住み始めた」
「ん?」
「ハトコ。唯一の肉親」
「へぇ、なんで」
「奥さんの浮気と自分の浮気がバレたって」
「それホント?」
「うん多分」
「よく知らないの?」
「なんとなくしか」
「へぇ…。その人なんで那由多くんと住むことにしたんだろ」

 確かに。

「まぁいいや、今日はおしまい。
 俺午前だけだから、ちょっとランチ付き合ってよ。家まで送ってくからさ、帰り」
「まぁ…いいですけど」

 この人、わりとなんだかこう、人との距離が近いんだよなぁ。なんなんだろう。精神科医って皆そうなの?

 いや、諏訪先生の代理で1度だけ来たもう少し若い人はなんか違かったな。もう少しトリッキーというか、変な薬出す人だった。

「じゃぁちょっと待っててね、帰る準備してくるから。椅子が疲れたらベッドに座っててね」

 そう言われたのでまぁ、頷くことしか出来なくて。諏訪先生が奥に引っ込むのを見ていた。

 まぁ確かに疲れるしベッドに座ろうか、というか寝ちゃおうかと思って靴を脱いで寝転がるも。

「風折さん、大丈夫?」

 寝転がってわりとすぐに声が掛かった。

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