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 百合枝さんは少し、面食らったような、唖然とした表情で俺を見た。

「その気持ちは俺も雨祢も同じ。百合枝さんには、いつもこうして助けてもらったんだ」

だから。
もう少し、何かを言おうと考えたけど。

「雨祢さんの那由多くんへの愛情は、きっと少し、澱んでいるのです」
「ん?」
「雨祢さん、ずっと」
「百合枝さん。
 百合枝さんはどうして雨祢と?」

 百合枝さんはなにかを考えたように空を見て、「さぁ…」と、ゆるふわを揺らした。

「共鳴とか、そんなものなのかもしれませんね」

そうか。

 それから、百合枝さんと一緒に、雨祢が保存しておいた煮物とか、百合枝さんが作ってくれた卵焼きと味噌汁と焼いた魚を食べた。

「じゃぁ、ありがとう、那由多くん」

 と、食器を片付け終えた俺に言う百合枝さんに、そうかと。
 もう、もしかするとこんな時間は来ないのかと焦り、

「百合枝さん、どこに居るの、いま」

 聞いて引き止め、

「いまはまぁ、その辺に泊まったりしています。そのうち家を見つけたら引っ越そうかと。
 一人で、誰も私を知らないところに」

 儚げだが、なんだか自由を見据えるような、少しの優しさや希望が見て取れる表情で。

「百合枝さん…、まぁ、これを言っても無駄かもしれないんだけど」
「なに?」
「一緒にまた、」

 首を振って彼女は微笑んだ。
やっぱり、そうなんだ。

「大丈夫。落ち着いたら連絡…那由多くんにはします。
 お金は心配しないで。ほら、那由多くん、減ってなかった?」

なんだろ、それ。

「元々彼が、貴方のために、遺産やらをつぎ込んだみたいですよ。けれど今月になって、私のところに少し入ってた。
 もしかするとだから、と思ってきたの」
「そうなの…?」
「じゃなきゃ、なかなか引きこもりなんて出来ませんよ。通帳は雨祢さんが管理してるのですかね」
「うん…そうかもしれない」
「那由多くん、雨祢さんは、貴方が本当に愛しいのですよ」

 玄関前。彼女は俺呼んで、目を合わせては微笑んだ。

 居たたまれなくなって、何故だか泣きそうになって。ただ、抱き締めてしまったら温もりがあって。堪えても涙は出ていってしまった。

「ごめんね百合枝さん、気持ち悪いよね」
「うぅん、」

くぐもった声で。

「私も那由多くんは好きだから。だから…」

そうか。
二人離れればお互いに泣いていた。
そうか。
もうこれが最後なんだ、多分。

「じゃ…」
「じゃぁ、」

またね。

 これが言えない俺がいた。
 玄関から出て行く彼女を見て、俺の選択はきっと間違いだが、彼女の望む結果であったならと、我ながら身勝手なことを考えた。

 どうしてこうやって人は行き違い、すれ違ってしまうのだろうかと、妙な寂漠を背負った。なんだか色々が倒錯した脳内を、どうにか結論付けようとベッドルームに戻って寝転んだ。

 いや、本当は結論なんて単純だ。
 俺は結局ずっと、大人になんてなれずに来たんだから。

 ただもし雨祢のそれが澱んでいるならば、それはそれでどうしても痛く苦しいはずだ。

 わかりきっていたことじゃないか。
 しかし俺は結局、唯一の遠すぎる親戚なんだ。だから受け止め、受け入れられないとして。多分それは雨祢も一緒なんだ。壊したのも壊されるのも俺だ。

 種族はそうやって生きていくはずだ。
 |翅《はね》を伸ばして行き着いたそこはあの湖ではなかっただけなんだ。

 悶々と一人でそんなことを考える。蜻蛉の不完全変態現象を思う。

 いつかはしかし、どこへだって、翔ばなくてはならない。
 それは酷く儚く美しく滑稽であることを彼らは知らないんだ。そんなことすら、知らないんだ。

 暫く考えていたら玄関が開く音がした。

 雨祢が帰ってきた。そして彼は小さく「ただいま」と言ってキッチンを覗いたような気配がした。
 返事を出来ずにいれば雨祢が寝室を覗き、「具合悪いのか?」と聞いてくる。
 少しの疲労が、漆黒の目やら、肌艶やら照明やらから見て取れる。

「おかえり雨祢」

 酷く自分の声が遠く感じた。

 ネクタイを外しながらリビングの食卓をみて言う雨祢の、「百合枝が来たのか」が酷く上の空で。
 なのに夕刻の泥沼のなかに消えるあの太陽の白い光のような薄暗く深いものを感じた。

「来た」
「そうか、風呂入ってくる」

 さしてなにもない日常のような自然さ。
 それから浴室の扉の音がした。

 眠気は覚め、俺は色々な感情を整理する。この眠気の微睡みは水溜まりのようにそれを受け入れては、乾いてしまうようだ。

 結局は情というしがらみは絡み付くしかなく、ただシンプルに、素っ気ない感情がもたらす一つを掴んで離さないものなんだ。

 雨祢のそれを許容しようというのは合理的で傲慢かも知れなくて。

 乾いた頃に湿った風呂の臭い。そう、俺はひとつ、ただひとつで乾いていた。今更過去なんてものはただただ絡み付いていただけの|泥濘《でいねい》でしかなくて。

 雨祢が風呂から出るまで考えていたらしい。冷蔵庫の開閉音が聞こえた。

 素っ気なくシンプルで灰色な日常。「俺も風呂入ってくる」それが22時近い現状だった。

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