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温ま湯ですら全てを流しきってはくれなくて。
どうしたって自分は男でしかない。しかし何故こうも拒否がある。その空虚に放り込まれた感情は『寂漠』でしかなく。
その波紋から離れず生まれた感情からずっと抜け出せずにいた。これが泥酔。そうか|蜻蛉《せいれい》のように、清廉とふらふらしている。だから美しくも醜いのだと。
だから。
風呂から出て身体を冷ますように間を置いてから一息吐いた。
息が詰まりそうな程に溺れているこれに沈んで、息の根を止めたいとリビングに戻った。
雨祢がソファーに座り、いつも通りにテレビを見ていた。食器はキッチンに置かれていた。
しかし感情も感じられない真っ直ぐな瞳で、雨祢の声は楽しそうに「久しぶりだね、百合枝の卵焼き」と言った。
「百合枝はどうしたの?」
「うん、まぁ…」
隣に座って前屈みで腕を組む。俺もテレビを眺めることにした。
「別れたみたい」
「…え、」
漸く場が変わる。
見上げて釘を刺すように、「だから、どこかへ行く前に、家に寄ったんだ」と告げてやる。
「…ちょっと、悪い冗談だな、比喩?」
「比喩か。
百合枝さんの知る全てを聞いた。雨祢のこと」
雨祢が、息が詰まるように息を飲むのがわかる。俺も手が震えてしまった。
次に雨祢がなんと言うかと思えば、切なそうにうっすら笑って俯いた。
ただ一言、「あそう」と。
「雨祢…。
百合枝さんはきっと、気付いたんだよ、ねぇ」
「そうか。
しかし百合枝に何を聞いたか知らないが、俺は百合枝にはあまり話していない方だ」
「なにを?」
「色々だよ」
睨むように雨祢は俺を見つめてきたが、すぐにまた表情が柔らかくなる。
「家、燃やしたの?」
「うん、それはホント」
「金が母親名義で、丁度俺が雨祢の家に住み始めたあたりで入った大金は」
「俺だな」
「そう…」
どうして。
「何故?」
疑問をぶつけてみる。
雨祢は鋭く視線で射抜くように、俺を見た。
「君と俺はどう違うのか、見てみたかった。
俺はきっとあの家から出て|蛹《サナギ》にでもなったつもりだった。だけど君を見ていたら、それは倒錯かも、もしや違う成虫になろうとしているのかも知れないと。
カッコつけたが要するに、似ていると感じたから、本能的になったんだ」
そうか雨祢も。
酷く乾いているのか。渇望、それはきっと。
「許せなかったの」
「そうだね」
なるほど。
それはなんて、哀しくも、はまり込みそうな沼。多分それは全てを産むための物だと、感じて。
「雨祢、」
「那由多…」
泣きそうな程に不安定な手付きでやり場なく頭に置かれた雨祢の手が重い。全てを堪えて歯を食い縛るようなそれのはずが、彼は笑ってみようとする。
どうして、不思議で仕方ない。
泣きたいなら泣けばいいのだろう。どうせ溜めても溜めても乾いてしまう。
これを受け止めるには少し、
これに溺れるには少し、息を止めねばならない。
受け入れるのは、傲慢だ。
ただ、俺も飢えている。
でも何に?雨祢も今この段階なら。
その手を取って首筋の脈あたりに当ててみた。
目を閉じれば雨祢の人差し指が湿ってくるのがわかった。どうやら乾きを求めたのは俺だったらしい。
満たしてあげたいとは思わない。
だが雨祢は違うようだ。その指が伝い頬から目元に来たときに、再び目を開ければ雨祢は、優しく微笑んでいた。
「どうやら、君を愛せるのは俺だけらしいな、那由多」
多分それも倒錯なんだろう。
ふわっと抱き締められてから、欲するように強くなる圧迫に、肩で泣いている気がした雨祢の髪を指で弄ぶ。慈悲深く、しかし震えた指先に任せて。
「那由多、」
「雨祢」
力強く呼んだ雨祢の耳元に、呼吸を整えるように吐いてやる。
「調子こいてんじゃねぇよ」
言葉のわりには濡れた声質だと感じた。
より抱き締められ、顔が離れた瞬間お互いに恐らくは、了解した。
抱きつき返して立ち上がり、壁に押し付けられて優しい目で言われる。
「お互い様だな」
そうかもしれない。
それから触れるように額に口付けられた。睨んで言ってみる。
「好きな人としたことないんでしょ」
雨祢はそれから間を置いて「ふっ、」と破顔するように笑った。
「そうかもねぇ、なに?やっとわかった?」
それから食まれるように唇に触れた。
案外、それは優しくあった。
流れるように、ベットに雪崩れ込む。
耳元で濡れた、うわ言のような吐息混じりが聞こえる。「好きだったんだ」と。
そうかこれは、
潤いもなかったこれもそう、渇きが癒えないこれもそう。
補食される。
本能はしかし脳ではなく。
首筋に掛けての生温い潤いすら甘美に換える。どこもかしこも、服の感触から外気に変わるそれすら泥酔。
気付けば互いにその体制。肌が触れるそれに相手の命を感じた。より、深みにはまるその快諾は、案外なく。
痛みを伴い、けれど求めるこれにあまり意味なく本能に。
純粋に生殖的で不埒で不衛生だと感じた時への快楽の頂き、これには首を絞めるように首の裏に手をまわして耳元で呟く。
「愛して欲しい」と、思ったよりも濡れた声で。
あぁそうここは真水ではない。
濁っている。|靄《もや》よりははっきり明快に。
真骨頂を貪る息は詰まるばかりで。漏れた声は何を求めるのか。
単純だった、単に愛して欲しかった。
生命として、認めて欲しかった、穢れることなく純粋に。それに何かを産もうというのが間違いだ。
しかし俺はどうやら業を産んだ。
雨祢の不衛生な不安定さを浮遊させた。ここまで来たらこれは、補色と捕食の倒錯的情事だったと思い知って流れた。
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