1


「先生、あの、」

 街灯が射す、車の中。
 小さな虫が靄のように、灯りへパチパチと群がり、ぶつかるのが閉鎖的。人通りはなく、聴こえてくるような残暑は消え。

「なんだ、」

 近付く男の顔は、少年の表情の真横を過ぎて、耳朶あたりで熱を感じる。

 湿っている。

 耳朶から筋を流れるように、食らい付くこの薄い唇が熱を持つのかと少年は感慨する。今、それから外されたネクタイと、ワイシャツのボタンの向こうで黒子を介して感じる。

「先生、」
「那由多?」

 掠れるような自分の声が湿っているのは。
 自分の喉仏が今、男の口元で湿ったからだろうか。

 好奇のように、煌々と光る漆黒の瞳は細められ、眼鏡を外してやる自分の手すら、震えている。

 目を合わせた男は少年の前髪を緩く掴み、晒された額に唇を当てては呼ぶ。「那由多《なゆた》」と。

「綺麗だ」

 言われながら次は右耳へ男の熱い息が掛かり。ボタンが外されていくそれすらもどかしく身を預けるように抱きつけば、

「ホント、欲しがりだな」

 鎖骨の唇に少し吐息を漏らす。
 ゆったりと脱皮するような着衣がもどかしく。
 太腿を撫であげるその、チョークを持つ指先に快楽の一途を見る。

 この男はわりと、足フェチである。
 すぐには至らないのがまた、少年にはもどかしくも、大人の快感であった。

 少し息が荒くなるあたりで男は毎度、少年に問う。

「このまましちゃっていいわけ?」

 荒い息で答えられない。
 大抵そうすると、一度熱は男の薄い唇へくわえこまれるか、その大きすぎない手に包まれるか。

「君、どうしてこんなんなるわけ?」

 嘲笑われるかの、凌辱的な質問をよく、この男は少年に投げ掛ける。

「最高に、淫乱」

 それから始まる、
繁栄、そういった意味があるはずの交友。しかしそれが意味を為さない。

 少年は知っている。
 これを、そう、不完全な物であるとするならば。

「先生、あのっ、」

 蠢く体の中の熱は。
 蠢く体の中の快楽は。

「はぁぅ、あの、せ、先生、」
「なんだ、なぁ…違うだろ、那由多。なぁ、」

 性急なるそれはもはや。
 蛹《サナギ》なのか幼虫なのか。見映え的には、あぁ、そう、蜻蛉《トンボ》の、尾が付く。

「はっ、あぁ、あのっ、か、かず、ゆきさん、」

 それは果たして。

「あっ、やべぇっ、」

 吐き出される。
 それは果たして。

 しかしいう妄言は。
 男の首に右腕と、しなった腰に左腕を巻き付くように絡める自分は果たして。

「…好き。
 はぁ、先生、好き。愛して?頼むから、何でもするから」
『…お前はホント、欲しがりだね』

 真っ白な頭を支配するのは…。

「こんな時間まで遊び歩く子はお仕置きしなきゃ」

 少年の母親は扉を開け冷静に言う。
 頭にはもう、あぁそうかと構図が浮かぶ。

「ごめんなさい母さん」

 俯いて謝れば、「ダメよ」と言いつつ、抑えられない高揚が見て取れるにやけ面で、手元に用意されたバケツの水を少年に掛けた。

 こんなこと、日常、リアルにあるのかと少年の頭を掠めるが、まぁこんなもんかというのも同時に頭を過ぎ。

 だって実際、その、これからの行為すら初めなんて「これを観て」とケータイ越しだった。それほど母は。

 靴だけ脱いでそのまま母親にリビングに連れて行かれて、あとはいつも通り。

 脱ぎ捨てたブレザーの非現実さがどうにも目につかない。それほど泥沼だ。女の快楽はそこにある。ここは泥沼。水の濃度ばかりが高い、生温い、だけど。

「あぁ、なんっ、」

 なんて。

 裸で躍るような母を見て思う。
 ああなんて。

「いやっ、あっ、」

 ずぶずぶと溶けるようなその穴に沈む自我と快楽に思考は遮断される。男とはきっとこういう生き物なんだと、のめり込みそうになる頃に大抵、

「穢らぁしい、」

貶され、ヒヤッとして萎えかけては。
 いけないと感じてあの教員との車内を思い出すしかなくて。またハマりこめば「あぁ、なんなのよ、」なじられ。

 どうして、なんなのかなんて。
 だけどどうしたって反抗なんて出来ないのは、背徳やら、この母親の切な気なよがりやらが自分のようでならないのもあるが何より自分がわからないでいる。いま自分は何者なのか。どうして生きている、何として生きている、生きていていて、果たして。

「あんた、もう終わり?
 ふざけないでよっ!
 穢らわしい、あんたなんていない方が、産まなけりゃよかったわ!」

 制服を投げつけられてふと、
 何かがシャットダウンしたような、まるでぷっつり糸が切れたような気がして。

 頭に残る一言は心底。

「那由多?」

 那由多の、荒い息がした。
 表情は苦悶を見せ、しまいには仰向けになり、目元を怠そうに腕で覆った親戚の額には汗が滲んでいる。

 はぁ、はぁと苦しそうに息をして、そのうち押し殺した嗚咽が混じって、起きたのを知る。

 また悪夢でも観たのだろうか。

「那由多、大丈夫か?」

 声を掛けてみるも、魘されたような嗚咽に、頷くだけの親戚は。

 耐え難い。
 その腕に手を伸ばせば拒否をするように壁を向き、「触んな、」と悪態をつかれてしまった。

 …そうか。

「…コーヒーでも飲むかい、那由多」
「…まだっ、」
「あそう。猫舌のお前のために冷ましとこうか」
「あまね、」
「なに?」
「…ごめんなさい」

 こんなヤツで。

 なんてことを、言うんだ君は。

「…はいはい。わかったらもう少し言うこと聞いて欲しいけど?」
「…なに、」
「頑張って一人立ちして幸せな家庭を築きなさーい。それが俺の言えること」
「あまね…」

 ごろんと振り返り俺を見る那由多の目は、まるで兎のように寂し気に揺れていて、赤く充血していた。

 なんだという。
 それは俺が嫌な気持ちになる瞳だ。色々思い出す、あの家のこととか、国産車の中で投げ出されてた日のこととか。君、あんまり覚えてないだろうけど。

「そんな目で見るな」

 たまに無性に。
 自分が嫌いになるんだ。君のその純粋な目を見ると。

 どうしてこんなに空気は淀んでるんだと感じてしまうんだ、脳が。

「ごめん」
「いいけどね。あんまり可愛らしいと俺も雄なの忘れないでよ?食っちゃうかもよ」
「なにそれ」
「生命保持」
「すげぇ」

 まったく。
 脚本家の癖に語彙力低いな。何で出来てるの今の若者の辞書は。

「それって食ったら生き延びれるわけ?」

 何言ってんだ?
 ポンコツかこいつはまったく。

「かもねぇ。美味しく頂ければね」
「じゃ無理だなぁ」
「なんでよ」
「俺不純物だからね」

 あらまぁ。
 そんな悲しいこと、何でさくっと言えちゃうんだろ、この引きこもりは。

「あそう」

 俺にとっちゃそんなもん。
 そんなもん、なんだっていいのに。
 なんなら。

「落ち着きましたか?
大人ぶってないで、まぁ、コーヒー飲もうか那由多」

 もっとぐちゃぐちゃに混ぜて不純、そんな物にしてしまいたいくらいなのにね。俺さっきまで頭の中でどれだけお前を掻き乱したかわかってんのか。
 それはそれは原型などないほどに掻き回して乱したさ。何度甘い声で「雨祢」と哭かせたかわからない。

 しかし不完全。だがそれで、良いような。

- 8 -

*前次#


ページ: