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 衝動的に洗った浴槽にやり場をなくして湯を溜めてしまった。そうなれば入るしかない。
 その小さな箱の湯はぼんやりと身体を暖める筈だが、一息吐けば膝を抱いたその手首が目につく。湯気がぼんやりとしている。

 この左手首少し上、橈骨茎状突起《とうこつけいじょうとっき》あたりに刻まれた未だ消えない傷の先は静脈と動脈の血管は混じり合うこともなく指先まで走り隣合っている。

 それまで混じり合うことのなかった筈だが、ぼんやりと覚えているのは白く滅菌された箱のような個室だった。
 確か、そうで。腕時計のように巻かれた包帯と疲れたような表情をして側に座っていた男の記憶は少し遡れば見えた物だった。

 川上陽一。
 久しぶり、とそれでも笑いにくそうに笑った陽一に、驚きやら、どうにも処理できない感情やら、状況やらに、暴力を感じて雪は身を守るように頭を抱えるしか出来なかった。
 もしかすると陽一を殴ったのは自分だったのではないかという記憶がぼんやりと湯気のように過る気がしたのだ。

 どうにも芯が冷えるような物だと感じて身震いがしそうだった。

 久しぶりに会ったあの日の病室では状況は霧散していた。何故いまここに自分がいるのか、何をしたかは痛みでわかる。診断は「意識錯乱の自殺未遂」というもので、しばらくは口も利けず共に過ごした。

 意識錯乱の自殺未遂など正直具合の良い体裁だった。だが錯乱していなかったのかと言えばはっきりと鬱状態に陥っていた。

 雪は逆上せて血管が浮く前に浴槽から上がり、その場で栓を抜いた。覚えている。カシスよりも遥かに赤く濁った浴槽を。目眩がする、少しの体温上昇。やはり酒を飲んだ後はシャワーがよかった。

『久しぶり』

 多分あの日、二回は聞いたのだ。だが逆上せた頭には霧散していく。鼻血が出そうだ。

 自分が何故そのようなことをしたか。

 不眠症にはおそらくたまにあることなんだろうと、精神科医の口上から読み取った。血液がきっと脳を遮断した、そこに湯気の如く自分の身体に襲い掛かった懐古、廃した感情、記憶、カミソリ、湯を溜めて思考停止のように信号を遮断したかったのだ。

 いや。
 本当に思考停止がそれを成すわけがない。ならば息をすることは精神異常には敵わない筈なんだ。説明出来ないのはそのせいだ、きっと。

 ぼんやりと、海月のように拡散していく紅い血を見て自分は何を考えていたか。何に襲われていた、何が切迫した、しかしそれでも血流は止まらなかった。

 線香のようだ。この湯気も、空気も何もかもが。

 冷たい気持ちでそれから寝巻きを着て、なにもないまま湯気で濁った鏡を前にして髪を、乾かしてみる。

 シャワーは雨のように感じた筈なのに暖かかったかもしれないな。

 髪を乾かしてくれた母の手を思い出す。皹《あかぎれ》が痛そうだった。だけど暖かくも体温は低く感じた。母はいつでも胃液で掠れてしまった声で「雪」と呼んでくれた。

 髪の指通りに本態性振戦を自覚し、生乾きのままドライヤーを切る。
 意識して風呂場を目に入れずに自室へ戻り、常備薬を噛んでベランダでタバコを吸った。

 線香のようだ。

 夜風は冷たい、夜空は濃紺で、しかし蛍のような街並みは足元にある。道路は非常に近いが鉄格子がここにあった。
 父親だと名乗った男が最後にここへ自分を縛り付けた、マンションの二階だった。それを期に全て買い与えられ、今やすぐそこの外に脱出する気も飛散してしまった。

 だが、大抵の自分への投資は今や母親に譲渡しているのだとあの男は知らない。身軽ではないがいくらか気分がよかった。本来、そうあるべきものだった筈だろう。あの日の霊安室が浮かぶ。

『浩が出所した』

 時期的には、そうかもしれない。

「そんな……、」

 母が言ったか、あの日の陽一が言ったか、最早絶句していたか、ただ表情は同じもの、二人はきっと、兄が暴力に任せて死んでしまった6歳も年の離れたキャバクラの女を受け入れられなかったには違いない。

 髪が体温を奪う。寒くなったのか背筋が震えたか、雪は部屋に戻りベットで考えた。

『なんで助けたんだよ、お前っ、』

 果たしてどの口がほざいてよかったのだろう。

 今や、やり場もなく自分の父親に反感を吼えた陽一を助けたなどと言えない、なんで助けたんだよお前だなんて、陽一が俺に言いたい言葉じゃないか。
 血塗れの包帯と馬乗りになって陽一に吐き捨ててしまった自分に思う。いつまで経っても俺は加害者側の人間だ。

 夜の天井を覆った左手の傷は思ったより深く浅い。どの面も下げられない、ただただ暴力に頭を抱えるだけなんだと、無理矢理寝ようと雪は目を閉じた。

 母親の、小さな、身体を抱えるように身を守る背中を思い出して。

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