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白い。紫煙。どうして。夢のようだ。ここは、なんで、眩暈がする、耳鳴りがする、傷がある、どうして、
ディスコード。
我に返った。
そして陽一の手は止まり、胸ぐらを掴んで組み敷いたその男が何者なのかわかってるが判断は遅れた、そう、この男は過去に姉を殺した男で義父のヤクザの息子で何より雪の実の兄で、姉の棺桶が思い浮かぶ、あの日持った位牌の木の質感と実感や現実から遠退いた只の血液の成の果てである涙が湿るその日の自分の空虚が今手に余っている。
「陽一、」
我に返った。この男はどうやらまだ微かに生きているが。
「殺しちゃいなよ、怖いんでしょ」
声に振り向いてその1Kの朝と自分を止めようとしていた雪の、どうとも言えない表情に、陽一の全てが脱力し情動の向きが不自然に変わり掴んだシャツを、手放した。
どんな風に自分を思っているのか、沈黙は語ってしまうが回折格子のようなものだった。光ではこの機密な気持ちを映すことは出来ない。
雪の、諦めと驚愕と悲しさが溶かしあった表情は、なんだろう。
陽一の、脱力と空虚と悲しさが交ざった表情は、なんだろう。
陽一は浩を寝かせたまま「大丈夫だ」と短く雪に告げ俯くようにタバコを指に挟んで咥えた。その右手のMP関節は、少し赤く損傷している。
「殺してないよ」
けど、死にそうかもしれない。
冷めた顔をしているが、陽一は恐らく何かしら、手の甲くらいに損傷したはずだ。
浩は死ぬのかもしれないが、雪の思考回路は何故か救急車を呼ぼうと思い至らなかった。いや、片隅にはあるがそれよりも「陽一…」と呼んで硬直するに至る。
「雪、」
脱力してその場に座った陽一は言う、恐らくは「なんで言わなかったの」と。タバコの火はつけない。
人のせいにしていることにも陽一は嘲笑したいような、そうでもないような気がしている。
答えようかと息を薄く吸う雪は、結局それを呑み込むことしか出来ない。ただ、歯が噛み合わないほどにはどうしたらいいのか、頭には浮かぶのだけど。
「…ごめん」
少し砕けたように、だけど脱力を残した口調で陽一は漸くタバコに火を点けた。
謝るのは、きっと自分だろうに。
いざこうなってしまえば言葉など、臆病が過ぎる。意味は霧散するみたいで。
雑じり気なさなどはっきりしているのに、全てが混ざって見えなくなる。ホワイトノイズだ……広大な、空のような沈黙だ。今ここにはたくさんの思いがあるはずなのに。
どこを見ているのか、空気を読んでいる陽一の二口目に雪は漸く「…どうして」と、言うことしか出来ない。
混ざりあった、はっきりと後悔だとわかる陽一の無表情と雪の言葉はクロスする。クロスフェードする前に「言えなかったんだ」と絞り出した。
「…どうして…来ちゃったの、陽一」
「…変だなぁと、思って」
いちいち、
「…はぁ?」
互いの距離が、
「…昨日のお前が変だなって、」
「なんで、」
重い。
「…なんとなくだよ」
「…どうして」
そんなことのためにこんなところに来てしまうんだ、あんたは。
『いいよ』
霊安室の諦めたような陽一を思い出す。
線香の紫煙は、細く昇っていた。白い壁に吸収されるように。
『あんた、世話してくれるって、本当だよね?』
それは、本当だったのかもしれない。ヤクザ者と関わりが出来たと、それから陽一の母は蒸発してしまったのだと後に知った。
あのとき、陽一は高校二年生だった。高校も辞めたそうだ。
一年だった雪はそれからちゃんと、漸くちゃんと、残り二年の生活を、父親の体裁で過ごしたというのに。
体裁とはなんなんだと、急に色褪せた世界に自分もそんなものは辞めてしまったのだけど。それすら疑問に苛まれて来た。
何故自分は今ここにいるのかという、悩みにすらなったのも贅沢だと感じることにも眩暈のような倒錯があった。
「ぅう…」
唸った浩に、確かに生きていたのだと雪は確認した。
どうしてか、雪にはよかったという感情がほんの少ししかなかった。ほんの少しもあったことに驚きだ。危うく陽一も殺人犯になるはずなのに、なにより、実の兄弟のはずなのに。
腐っても、母が生んだ男に違いが、ないだろうに。
「…起きたか、」
吸い殻は転がったビールの空き缶に捨て、陽一は酷く排他的な目で浩を見下した。
どうやら、浩にはもう、この男へは何事もないのかもしれない。
咳き込んで何も言えない浩の胸ぐらを掴んだ陽一は「救急車はいるか、森山浩」と、平坦に言う。
答えなくても陽一は再び浩を離し「いらねぇよな、」と言い捨てた。
「どこもなくなってねぇもんな。歩けるならさっさと世話になったところに帰れよ」
「…だ、」
「誰か知りたいか?
お前みたいなバカに名乗るつもりはないけどな、川上だ」
浩は錆びた鈍音を立てる思考回路の行き先で、ちらっと雪を見つめるに至る。
雪はそれに「…義兄だよ」としか答えられなかった。本当は陽一の分の「てめぇが殺した女の弟だ」と、吐き捨ててやりたかった。
「かぁか…」
「…青柳誠一郎といえばわかるよな、舎弟だ。
お前、誰に身元を頼んだんだ」
「…は?」
「青柳はお前のことを探しているようだぞ」
「なん…」
「知らねぇよ。面倒だからだろ」
「…ふ、」
それは誰に対する嘲笑か。
浩はそれから苦しそうにひぃひぃ言いながら咳き込み、絞り出した。「お前、キャバクラの弟か」と。
陽一は答えない。
「…俺を、殺す気かっ、」
「…バカでも話は出来るらしいな」
「…そこにいる、本家に、頼んだぁいいだろ」
…会話が不透明に感じた。
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