6
無言で歩き出した彼に「飯島くん」と後を着いて呼び掛ける。
「あれからニーチェ、読んだ?」
「…ん?」
「私には意味がわからなかった作家さん」
「…そうだったのか?」
「うん。ただ、少し読んだだけだよ」
「そっか。
俺は、そうだな、わからなかったよ」
…読んだんだ。
染まることをも厭わないからこそ。
「…大切にしてね、これからを」
誰かを。
うん、と照れ臭そうに行った彼に満足した。
わからなくていい。ただ、寂しくなるのだから。思わせ振りなのも、いや、本当に愛してくれたとしたら尚更。
私を知らない人がまた増える、こんな暗い感情なんて、どうしても泥沼にしか思えないから。
他人の愛を受け入れる、優美で無償な愛。
それは鮮やかに上と下で、海と空のように、混じるか混じらないかの色合いが綺麗なんだから。
「…大切にするよ」
彼はそう、噛み砕いた。
彼の家のベッドは、あの日の兄の景色と似ていた。
擽るように制服を脱がされ、掛かる息に鳥肌を立てて。
あの日私は兄の髪を撫でた。彼はこそばゆそうに「瑠璃、」と私を呼び、耳元で言ったのだ、「二人だけの世界だ」と。
私はそれがこそばゆかったのだけど。
今、あの夕日をとても悲しいと感じるのはどうしてなんだろう。
ただただ、殺されたような気分で、でも、赤とも違くて。ただ何故か知っていたんだ、「お母さん」と、ぼんやり思ったことに。
下着の上からずっと、突起を擦られている。
「気持ちい?」とずっと耳元で聞いてくる飯島くんは切なそうで、ただ、「よくするよ、」と言って何も聞かずにぐちゃぐちゃと、指でされて。
「瑠璃、」
微睡みはなく。はっきりしている。
彼はきっと私を愛そうとしている。
彼の熱さは充分わかった、だけどそれは熱いだけ。
気持ちはわかったのだけど、もどかしくて、私はさらっと撫でたが「いいから、」と手を取られてしまって。
譫言のような「好きだよ、」が湿っていた。
綺麗事言ったって、という先生の言葉がよくわかる。
「どう?どうかな?気持ちい?」
…確かに、そうなんだけど。
彼の網膜は揺れて、塗れて。
軽く身体が痺れそうになったとき、激しく擦られた。爪が当たる。それすら痕を残しそうで。
「…待っ、て」
「ヤバイ?」
「違う、」
「瑠璃、」
ちょっと、
「ちょっと、待って……っ、」
…わかってるけど。
「いいよ?大丈夫だよ?」と夢中な彼に、あぁ千秋さんは、と考える。
もどかしくて、切なくて。いつもは「夕飯何にしよう」とか、「次は新宿だ」と考えていたのに。
熱い息遣いと、全てを包み込むような優しさ。
初めて、泣きそうな程に「このままでいたい、このまま溶けて死んでもいい」と、彼の腕で考えたのに。
「ねぇ、瑠璃、」と聞こえてきた声で現実に引き戻った。
「いいかな?いいかな?」
聞きながら押し込んでくるのに「ちょっと待って」と半身を起こした。
…ぐちゃぐちゃに混ざって溶けて、なくなってしまいたかった。それが、悲しかったなんて。
飯島くんはイノセントで驚いた顔で戸惑った。
「…痛いよ」
そう言えば俯いて「え、」と漏らし、そしてしょんぼりと「ごめん…」と言った。
「これが、良いのかなって……」
…そうか。
いや、前から、わかっていた気がする。
足元で丸まったパンツを履きなおし「終った」と私は思った、飯島くんもそうみたいで、大人しく脱いだパンツとズボンを穿いた。
「……上手くいかなくてごめん」
「…ううん、大丈夫」
「瑠璃、」
「ちゃんと、言いたかったの」
「うん…」
「どうやって、愛したかったのかなって」
私も、彼も。
固まってしまった彼をよそに、私が帰る準備をすると「瑠璃、」と彼はなんだか、寂しそうで、何かを察したような、このときだけは同じものを見つけられたのかもしれない。
「明日は、」
「うん」
「来るのか?」
特に答えられなかった。
去ろうとする私に彼は「送る、」と慌てる。
「…ごめん、まだ終りたくなくて」
「終らないよ、きっと」
出来るだけ優しくいおうと決めたら、彼は大人しく「そっか、」と出る準備をする。
混じらず、でも同じ場所にある。西日はそろそろ夕方へ近付いて行く。
そう言えば、夕日と夜ははっきりとわかれている。あれは一体何故なんだろう。
最低なのは何より自分だ。
迎えを頼まなければならないなと思い出す。
最寄り駅を千秋さんに送ろうと、自然と名前を出したとき、手が止まった。
飯島くんは何も言わずに着いてくる。
私には、いつでも纏い付いているものがある。いま、漸く気付いたような気がした。
名前も知らない、小さな感情。
電話にした。
すぐに「どうした?」という声がする。後ろの飯島くんが凝視した気がする。
「千秋さん、」
でも、何を言おうか。
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