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記憶の標に遠き日が浮かぶ。キリスト教やら仏教やら、無宗教な心意気だが、今日は教会に向かう日だ。
とても晴れていた。
黒髪で黒目の綺麗な妻だった。
肩より少し長い髪が揺れるのが綺麗で、首筋を食んだ日を思い出す。
いつでも朗らかな女性で、憔悴した日も、疲弊した日も「元気になーれ」と笑いかけてくれた。
特別美人だったかと言われれば、日向にとっては最高に素敵な、綺麗な|女《ひと》だったと思うが、一般的にはどうだろう。年上の彼女の、幼く感じる笑窪、一般的な身長、スタイルもきっと普通だった。
だけど君の笑顔に俺は惚れたんだ。
ゆっくり笑うそれは居心地がよくて。膝枕は彼女の膝の上で、髪を撫でるゆったりとした動作も、心地よくて。
ウエストあたりに小さな黒子があったな。
指輪を嵌めてやったとき、嬉しそうに泣いて、眺める指輪とその少し上にも黒子があったのがチャーミングだった。
この笑顔は死んでも俺のもので、最期は歳を取り、笑顔を看取ってから死ぬんだと、当たり前に決めていた。
日向はCIA諜報員の採用試験に合格し、日本へは帰国せず、むしろここを捨てる決意をすることになったが、それでも彼女は着いて行くと言ってくれた。
彼女とはアメリカの大学で出会った。
彼女は大学に在学中、一度出産のために帰国し、そのまま退学した。その頃自分は大学3年、つまりは二十歳で、まだまだプロポーズに踏み切れなかった。
卒業後日向はお呼びが掛かっていたプロフェッショナルコースに入学する。
1年の頃にCIAに呼ばれ、そのまま就職することになった。ギリギリ要項の「5年在住」も突破した。
しかし、出産には帰国し、病院で共に娘の顔を見た。
CIAとなる事が決まってから漸くアメリカに住居を構えて結婚した。実に、出産から2年越しだった。
早すぎる就職と、早すぎる決断だったと、今なら思う。
二歳の娘には少しずつ、自我が形成されていた。三歳になる頃には自然と「パパ」だった。
久しぶりに出会った娘の手は、人差し指を握っていた時よりも大きくなっていた。指二本を握る娘は、妻にも自分にも似ていた。
必ず家族三人、同じベットに寝て。
娘が描いたUFOと人魚の絵を思い出す。どんな世界がこの子には広がっているんだろうね、湊くん。そう言って笑った妻を思い出す。世界平和じゃないかなぁ、とあの時答えたはずだった。
気付けば家族で暮らした年月よりも、今の生活の方が、長い事実が不思議だと感じる。
妻と娘は、自分が追っていたマフィアに惨殺された。偏りすぎたキリスト概念と、事情と、色々が混じり合った結果だった。
自分が犯したミスだった。
それからは間もなくしてヘルシンキに赴いた時には、また別の仕事であって。その疲弊を抱えたままに、まともに葬ることも出来なかった。
いや、正直。
それは言い訳だった。
実際あのとき日向はただ、目の前の惨状に、こめかみを撃ち抜こうとへたり込むくらいには欠落していた。
内容が内容だけに、遺体は秘密裏に日本へ帰国したが、アメリカに住民票があった為、皮肉にも彼女の親元ではなく、あちら側が建てたキリストの墓に埋葬された。
ここに自分が入ることはない。とっくに自分の名前も記されているのは、日向はあの日に死んだからだ。
ヘルシンキに住居を構えた頃にはまだ、日向は生きていたことになっている。残念ながら日向が死んだ日は、事件から1年後となっている。共に死ぬことすら許されなかった。
間貴志に出会った日に、帰ろうと決めた。あの暴動はしくじり、自分は死んだのだ。
あの頃。
日向に咲いた白い花は、日本では手向けに使われている種類だった。それを手に、教会に付き、祈りを捧げることもなく墓につく。
共同墓地は、ここだけアメリカのような風景だと感じた。沢山の墓石が規則正しくも無造作に並んでいる。
風の振り子、白い花は揺れている。
あれから何度目の訪問だろうか。
心もとない遠き声が聞こえてくる。縁に辿るには弱い標で。
その声なき風の音に、いつも気付けば前についている。
君たちの聞けなかったあの日の叫びは、俺をこうして呼ぶんだよ。
白い墓石にはYuriko Hinata,Akari Hinata,Minato Hinata。縦に並んでいる。
過去のヒナタは死んだ。そう言ってやりたいのに。そいつは君たちを守れずにピストル自殺をした。君たちと、あの場所で。
でも、君たちを守れなかった俺はここに、百合の花を添えているんだなんて。
なんて血まみれの手なんだろうかと、ぼんやり、墓石を眺めて日向は思った。しかし不思議と麻痺したように、もう泣けない置いていかれた遠い寂漠、センチメンタルがここにあるね。
一度切りだった、父の日にくれたあの絵は、君の頭の中の世界観だった。久しぶり。一年ぶりにここへ来たよ。
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