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 性というものをまざまざと見た…。
 どっと疲れてしまった。いや、いい。一時間だけでいいから寝ようと今日はちゃんとタイマーを掛けた。

 夢ではゆずさんが、一人の僕を無表情で見下ろしていた。僕はゆずさんに何も言えずに助けてくれと見上げるのだが、彼は薄笑い。
 …僕はそれが悔しい。
 もしも僕がという沸騰した考えが充分に、汚れた自分の手で彼の手を引き、驚いた彼に跨がって、そこからあの影絵に変わってしまう。

 だが、僕はその僕の影を傍観している。僕の影が彼の両足を持ち上げているそれに、「僕であれば」と考え、激しく彼を犯すのだ。
 はぁ、あぁ、と喉が切れそうな彼の息遣い。苦しいでしょ、寂しいでしょ?と自分が良い気になっているのがまざまざと見せつけられる。
 どうしてこんなことをしている、見ているのかと心の奥底が痛むとき、彼は体を反らすようにピンと張り詰めて、そして糸が切れたように脱力して……。彼が反らした瞳の先にはきっと、障子一枚で池…傍観している方の僕がいるはずなんだ。

 たった一時間の夢で満たされ、満たされたあとの嫌悪や…とにかく白濁色の汚い感情に寒気がした、僕は気分を変えたいとひとまず仕事の洗濯やら掃除やらをしようと考えた。

 中川さんには「浮かない顔ねぇ」だなんて言われたが、多分至極当たり前な顔で仕事をこなしたように、自分では思える。

「この頃圭太ちゃん、げっそりもしてるし。やっぱり忙しい?」
「いえ、寧ろ中川さんの方が忙しいでしょう」
「私は慣れているから、古いお付き合いだし」

 そう言えば中川さんと僕しか、この家に手伝いというものがいない。

 …それは、これから先にやはり、跡継ぎがいない、つもりだからだろうか。
 部屋の数を見れば余ってもいる、つまり昔はいたのだろうと勝手に予測出来る。
 しかしそれについて中川さんに聞くのもどうかと思ったし、何より聞きたくないような気がした。

 そんな中、それは展示会が終わった18時すぎの頃。
 夕飯を用意しなきゃねと中川さんが考え始めた頃、「ただいま」と、先生は思ったよりも早く帰宅してきたのだった。

「あら、お帰りなさい旦那様。お早いですね」

 先生は酷くご機嫌な様子で、たくさんの花束を持っていた。

「…無事に終わりました。明日は片付けですが、」

 そう言った先生はその花束を僕に全て寄越し、「まだある」と言う。

「圭太、大盛況だった。これは君に」
「え、」
「車から持ってくる。手伝ってくれ。
 今日は肉も買ってきたよ」

 先生はそう言って中川さんを見、「すき焼きかしゃぶしゃぶ。どうですか」と、まるで子供のように提案するのだった。

「まぁ、久しぶりですね!」
「たまには」
「我が家はすき焼きじゃないですか旦那様」
「うん、まぁ」
「確かに私は歳ですが気にしないでくださいよ。良いじゃないですか」
「…ですよね」
「わぁ、そしたら…少々買い物に出ましょうかね」

 中川さんも嬉しそうで、「急にすみません」と先生は言った。

「良いんですよぼっ…旦那様」
「ははは、坊っちゃんでも構わないですよ」
「すみませんね、つい、その、旦那様の小さい頃を思い出してしまって」

 懐かしそうににっこりと笑う中川さんに、先生は「まぁ…ですね…」と照れ臭そう。

「あぁそしたらまぁじゃぁ、そうだな、やっぱり、買い物は圭太と中川さんに任せて…あ、ゆずの体調はどうですか」
「えぇ、圭太ちゃんと縁側にも出ていらしてましたよ」

 …なんと見られていたか、気まずい。

「そうかよかった。活けて貰おう。起こしてきます」
「畏まりました」

 中川さんは袋を見て「わぁ、凄い」と声を上げ、「お野菜は…」と冷蔵庫を開いてメモを取り始めた。

 その間に先生は「ゆずを」と言い残してまた車へ戻っていく。

 僕がゆずさんの寝室へ花を持っていくと、後からまた同じ量の花を抱えた先生が「ゆずき、」と、声を弾ませて部屋へ声を掛ける。

 …ゆずき。
 自然と洩らした先生のそれで初めて名前を知った。
 …その事実に少しだけ違和感を持った。

 ゆずさんは快い笑顔で花を受け取った。

「…では」

 僕は買い物もあるのだし、台所に一人戻り、先生が買ってきた肉を覗いた。
 確かに霜降の牛と……恐らくは鶏のモモ肉があった。

「…鶏肉って初めて見ました」
「ああ、そうよね、圭太ちゃんが来て初めてだものね。旦那様ったら始めからすき焼きの気分だったのね。これは最初に焼くのよ。細井川ほそいがわ家は毎度、お祝いの日にはすき焼きかしゃぶしゃぶなの、けど…大体がすき焼きね」

 豚は知っていたけど……。
 さっきもちらっと言っていたし、中川さんへの配慮なのだろうか。

 それから中川さんと買い物に出た。

「往年、先代の旦那様が春菊ばかり食べたんだけど、どうしようかしら。圭太ちゃんは春菊好き?」
「えぇ、はい」
「椎茸は旦那様が嫌いなのよね…」
「そうだったんですか」

 中川さんは「白菜はあったし…」と、やはりどこか嬉しそうに吟味している。

「圭太ちゃんの家はどうだった?」
「…きっと普通でしたよ。豆腐もネギもしらたきもありましたし」
「圭太ちゃん、ご実家も関東?」
「えぇ」
「そうなのね。
 実は先代が関西の方だから作り方、違うのよ。玉ねぎは入れた?」
「え、そうなんですか?入れなかったです」
「私も最初は驚いたわ。あまり変わらないけど、関東は割り下でしょ?
 関西は最初に砂糖で焼いて醤油で…のみの味付けだから、白菜や玉ねぎなんていう、水が出る野菜は欠かせないんですって」

 そうなのか。
 一番家庭が出る料理、初めてそれも知った。 

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