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私が書道家の屋敷の敷居を跨いだのは、自分が三十にもなる頃合いだった。
私の人生は女に生まれた時点で慣例に倣い、曇りなく決められていていたようなものだった。
“女とはそういうものだ”と育てられ、私自身も時代という共有感に疑いすらなく染まっていた。普遍に道を歩くごく普通の女で、十八で嫁いだ先もごく一般的な家庭だった。
一つ振り返れば、十九で産んだ息子が奇病だった。
その次男が生まれた時点で嫁ぎ先とは破談し、私は再び家に戻り一人で彼を育てていた。
彼は本当に自由奔放に育ち、感情が豊かな子供のまま何もわからずに逝去していったのだ。
未だに彼は私の夢に出ては、元気に我が儘を言っている。
私の母は古い人間だったが、私とは違い子供を意味不明なものとして扱う人ではなかった。
嫁の貰い手もない私に跡を継がせ、自分と関わりがあった家へ私を寄越した、それが書道家の細井川先生の家だった。
産母だった母は細井川の先代の当主、修介様を取り上げたのだそうだ。
私は現在の細井川の当主、和昭様を取り上げた。
その頃私は三十だったが、奥様は十九という年齢であった。
奥様が嫁いだ頃の私と同じ年齢であったこと、これに少しの希望やら、暖かい気持ちを抱けたことはもしかすると母の計らいだったのかもしれないと今でも思う。
彼女はもちろん、世間の右も左もわからない若い娘のまま未来が決まっていたのだし、境遇だって私と同じようなものだと思えた。
後にも私たちはまるで姉妹のような気持ちで生活を共にした。
その息子、和昭様は少々癇癪の気がある子供だった。
それも、奥様とそういった関係を築けたひとつの要因でもあると思う。
例えば坊っちゃんは、着る服はみな同じような色でないと落ち着かないらしく、何も構わずすぐに脱いでしまうのだ。
特に赤色というものが嫌いで、どこかに赤が使われている、ならまだいいのだが、下地が赤だと全く嫌がってしまう。
私の息子にも、似たようなところがあった。
「変なとこに目があるからやだ」
恐らくそれは本人にしかわからないもので、独特な感性を持っている。
「目?そうなの……。じゃあ黄色いのにしよっか?」
「きいろ?」
「そう、黄色」
奥様はそう坊っちゃんを宥め、それに坊っちゃんは納得しているのかはわからないが、一言で怒らなくなる。そうやってお家では過ごされていた。
そんな姿を見て私は坊っちゃんの服を赤から黄色に変え選ぶのだが、家政婦全員がそういうわけではなく、よく坊っちゃんに振り回されていた。
奥様は、基本的には穏やかで寛容な方で、例えばそれから「ちょっと似てるから嫌だよ」と坊っちゃんが我が儘を言っても、「かっこいいんだから」と、とにかくそうして言い聞かせている場面もあった。
それは噛み合いはしなくても、微笑ましい光景だった。
しかしそれを「我が儘に育てて…」という空気で大抵の家政婦は見ていたのも私は知っている。
「あの人若いからねぇ」
「急いでいるのに…」
「泣かせて許してるからいけないのに」
と、しかし癇癪というものを説明をするのは難しい。
それはきっと坊っちゃん自身にもなかなか感情に収まりがつかない、それが生理的なものであるというのならその無理強いは良くないのだと私は息子で学んでいた。
それを奥様に告げるのは少々躊躇われるが、「何故なのかわからないのよね…」と悩んでいたのも、私は間近に見ていた。
「きっと坊っちゃん自身もそうでしょうけど、案外気分であっさり変わってしまうこともありますよ」
「けど…はっきりとあの赤い服だけは着ないのは…理由があるのかもしれないと思うとなかなかね、どうせ服なのだし…。子供なんて、単純なのかしら?そのわりには」
「そうですね。何か単純でもなくはっきり“嫌だ”というのがありますよね」
ある日、奥様は坊っちゃんを迎えにいく道中で私に話をした。
「…ごめんなさいね、中川さん。つかぬことを聞いてもいい?」
「どうしました?」
「…主人に聞いたことがあるんです。私が不快なことを言ってしまったらちゃんと拒否をしてくださいね。
中川さんにはお子さんがいらっしゃったと聞きました。だから、相談に乗ってもらいなさいって」
私が風を吹かし、余計な助言をせずとも彼女は自分で物を掴める女性だったのだ。
「はい。そうですね…」
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