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 理解としては、東坂のお母様はどうやら怪しい宗教に入ってしまい、勿論息子の柚希ちゃんにも影響があった。
 次第にお母様には学校からも指導は入ったが、全く取り合わないということだった。

「…私も最近久しぶりに見たら、ゆずちゃん、明らかに元気がなくて。でも子供ってそういうこと、わからないでしょ?あれはちょっとまずいかもしれない。
 私、お母さんと…例えばお料理教室〜じゃないんだけど、せめてどうにかやってみようかなって思ったのよね…」

 入ってくる少ない情報ですら、その子供にとって健全ではない、確かに非常に心配だと胸が痛くなる話だった。

 しかし、「やっぱりなんだかダメそうなの…」と奥様は後日、料理が入ったタッパーを見つめて私に相談をしてきた。

「あぁ、家はそういうのは食べないんでって返されちゃって…」

 他人の家のことだがどうにか、勿論お節介は承知だが二人で画策もしたけど、どうやら根深く相当難しいと感じた。

 状況打開の決め手は、坊っちゃんだった。

 電話が鳴ったある夜、坊っちゃんは「ユズ、ユズ!」と向こう側に叫んでいた。
 どんなに状況を知らなくても、坊っちゃんの様子が物語っている。
 ゆずちゃん本人のSOSだった。

「喋んなかった、でも、あれ絶対ゆずだよ、母ちゃん、ねぇ、やっぱり変だよ!」

 奥様はそんな、泣く坊っちゃんに「大丈夫」と、きっと親の顔だ、穏やかに言って頭を撫でた。

「お母さん肉じゃが練習したの。お裾分けにね。
 お迎えに行きましょう」

 安心はしなかっただろうけど、ただ心強い奥様の姿に坊っちゃんはぐっと涙をこらえた、拳を握った、震えそうな声で「うん……!」と、それから奥様は「ごめんなさいね」と決意で私と旦那様に宣言したのだ。

「まず行ってくる。お父さん、暫くゆずちゃんは預かりましょう」
「わかった」

 旦那様は二人で行こうとする背に玄関で「二人で大丈夫か」と一言だけ声を掛ける。

「大丈夫、行く」

 私はようやっと「これから5人分ですね」と穏やかに務めることしか出来なかった。

 出て行った二人に、旦那様はそわそわしていた、私もそうだったが、ただ言えることは「母は強いものですから、」だけしかない。

「肉じゃが、頑張っていたんですよ、奥様」
「うん…」
「坊っちゃんも奥様も、本当に…綺麗ですよね。私はなんだか…」

 感化されますよ。

「しかし、こうなれば相手方も正気ではないでしょうし、お出掛けの準備をしますね」
「そうだなぁ……でも、」

 何も言えなかった。
 最悪の事態は想定出来る。

 正直、その柚希くんが無事かどうかも勿論だが、奥様や坊っちゃんがもしも……であったらなんて、そちらの方が恐ろしい。
 けれども、と冷静に考えた、病院のベッドの情景まで浮かんできた。

 私は坊っちゃんにああも教えながら、冷静にその場をやり過ごせないだろうと思える。

 それから少し経ってからの電話で、旦那様は病院へ向かった。
 まず奥様からだった事実に、随分と言い知れぬ安堵が広がった。これが待つことしか出来ないという事だと、あの時まざまざと知ったものだ。

「無事だそうだ、行ってくる」

 と告げた旦那様すら私は待つことしか出来ない身だったが、そうか奥様、よくぞと、膝から崩れるように一人で泣いたのは誰も知らない事実だった。
 病院へはゆずちゃんとゆずちゃんのお母様を運んだそうだ。

 酷かった。

 ゆずちゃんは何日断食したかという状態で、それはお母様が無理心中に近い「即身成仏」を望んだのだと、皆で帰ってきてから聞かされた。

 確かに、誰も悪くないのだからやり場はなくなったが、やはりゆずちゃんのお母さんに対して良い感情は抱きませんよ、というのを正直に言えたのは坊っちゃんもゆずちゃんもいない場所だった。

 暫く、がこんなに長くなり、その間にゆずちゃんのお母様は亡くなってしまった。
 が、そもそもゆずちゃんはお母様を断捨離したようなものだった。

 大人になっても恐らく、精神的に病んでしまったお母様へ「会ってはならないんだ」という気遣いに変わったのだろう、この子はそんな子供だ。
 それに愛情を掛けるのは、私にとって無償の気持ちだった。

「引き離されたという見解は恐らく正しいのですが…」

 ゆずちゃんはここに来てから暫く、ショックで話せなくなってしまっていた。
 あのときの坊っちゃんの態度でも理解した、凄惨な現場だったのだ、間違いなく。

「けれど、誰しもを恨めはしなかった。
 それは「恨んではならない」というやるせなさと、「いや、誰しも僕のことを考えてくれた」という感謝と、多分、半々で…」

 切れ切れであるが淡々と彼は語る。

「感謝や、暖かい気持ちの方が勝ります。
 …中川さんの気持ちが今痛いほどわかる。あの人、多分こんな話は出来ないですよね」

 そうして穏やかに笑う彼に対し、恐らくは親のような傲慢な心境、暖かさに包まれている自分。
 不覚にも泣きそうになってしまった。

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