無色透明色彩


3


「あれ…?なんだか楽しそうだね」
「はー、面白いよ…。明日リサイタルだっけ?」
「はい」
「喜多、お前チケットないの?」
「え?」
「まぁいいや。櫻井くん…えっと櫻井詠司くんだっけ?頑張ってね」

そう言うと彼はぴょんっと椅子から跳ねるように降り、ポケットに手を突っ込んで研究室を出て行った。去り際に喜多先生の肩に手をぽんっと置き、「お前らしいよ」と耳打ちをして。

「え、何があったの?」
「いや、特に何も…」

喜多先生はゴミ箱を見て、「打ったね」と言ってデスクに向かった。

「具合は大丈夫かい?」
「まぁまだちょっと肺は痛いですけど…」
「打ってからおそらく10分くらいでよくなるよ」

そんなに速効性があるのか。

「一応今日、具合悪くなったら連絡してね。で、明日終わったらもう一回来て。多分これで大丈夫だとは思うんだけど念のためね」
「わかりました」

その時、喜多先生のケータイが鳴った。すぐ止まったのでおそらくメールだろう。画面を確認した喜多先生は、ふと、彼が座っていたテーブルを見て「やられた…」と呟いた。

「櫻井さん、よほど彼に気に入られたね…」
「え?」

どうやら相手は彼らしい。今の今までいたのにどうしたんだろう。

「明日終わるの何時ごろ?」
「午前が11時から14時、午後が17時から20時です」
「なかなかハードだね。午前終わったら来れたりする?」
「大丈夫ですよ。明日はここでやるんで」
「わかった。その枠は丁度診察終了だから、まずレントゲン室行っちゃっていいや」
「はい」
「はぁ…さて俺はこれを片付けるかぁ」
「え?」
「まぁこれは俺が彼に手伝ってもらってた仕事だからね。彼も忙しいから、明日までの仕事に戻ったみたいだよ」
「そもそも彼は…?」
「彼は、」

と言ったところでまた喜多先生の電話が鳴った。ケータイの画面を見て、小さく溜め息を吐く。

「どうしたの?」

そこからどうも、仕事の話をしているらしかった。なんだか忙しそうだし、そろそろ帰ろうかな。

取り敢えず治ってきたし、頭だけ軽く下げて研究室を後にした。

どうせ休日に来たんだし、ピアノでも弾こうかな。まだ調弦してないから微妙かもしれないけど。

会館に寄ってピアノに触れる。88音全てを鳴らしたあと、ショパンの華麗なる大円舞曲を弾いてみる。

若干指先が鈍い気もするが、まぁ弾いていけばなんて事はない。

でもなんかなぁ、やっぱりショパンは難易度が高くて綺麗すぎる、音が。でもなんかこんだけの音階を考えて詰め込んだのにこれだけ綺麗なのは逆に変態を通りすぎてクレイジーだよなぁ…今のパンクバンドみたいだ。頭の中には音と音符と線しかなかったんだろうな、ショパン。

と考えていたら一音間違えた。
小指がうまくいかないなぁ。

試しに一度弾きやめて88音を高速で何秒で弾けるか何度か試した。右手の小指が何だか詰まる。なんだろう。少し痺れているような気がする。

あんまりやりたくないけどちょっと指を鳴らしてみようかと思ってバキバキ、とやっていると、「指?」と言う声が背後から聞こえてきた。

驚いて振り返ると、さっきのなんたらさん(白衣の長身)がポケットに手を突っ込んで舞台袖に凭れ掛かっていた。

よく見ればこの人、足元スリッパだ。

「いつからいらっしゃったんですか?」
「うーん、弾き終わって鍵盤全部叩き始めたあたり」
「そうですか…」
「痺れたりしてる?」
「いや、特に…?」
「温度は?」
「あ、そう言えば」

右手だけ冷たいような気がしなくもない。

「血行不良かな。左の肺の方が右より重症だったんじゃないかなー?薬品効果が左側、動脈側に喜多も薬打ってたから俺もそのあとそっちに薬打ったんだけどね。思ったより効果が早いな。あの薬一時的に血流を悪くすると言う欠点があってね。だから利いてるうちは過激なスポーツはしないでねー。どんなに頑張ってもダメなときはダメだから逆に血管プッチン切れちゃうからね」

何を言ってるかさっぱり分からない。

「ん?つまり?」
「いま動脈硬化みたいなことになってるって感じかな」

この人なんか喋り方が胡散臭いし、そもそも何言ってるかわからないから全然信用出来ないんだけど。
一種の変人感が漂っているんだよなぁ。

「明日ショパン弾くの?」
「いえ、私が作った曲です」
「へぇ、ちょっと弾いてよ」
「え…まぁ明日やる曲は流石に無理ですけど」

と言ってまたショパンを弾き始めると、やはりどうも右手の小指が思うようにいかない。

小指を使う曲に途中で切り替えて弾いてみたりした。

程よく小指を使っていたらそのうち解消してきた。

はっと思い出して手を止めた。すっかり忘れていた。

振り向いて見たら彼はもういなかった。

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