無色透明色彩


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その後、事務所のマネージャーと電話で打ち合わせを済ませ、今日はもう帰ることにした。

明日の演奏のためにもう一度自分の楽譜を見直し、練習をしなくては。

その頃には肺炎のことなんてすっかり忘れていた。そんなことよりも彼は結局のところ何者だったのだろうかと言う疑問の方が強かったが、それもそのうち忘れていた。

家に帰ってひたすら楽譜を眺め、頭でイメージする。目の前に架空の鍵盤を広げて演奏する。

眠くなってきて布団に入れば、やはり再び疑問を思い出した。

名前なんだったっけなぁ。医者とかなら調べれば出てきそうだけど。

そして気が付いたら寝ていたらしく、アラームが鳴る。シャワーを浴びて準備をして大学に向かった。

大学の第二会館。ウチの大学では一番広いホールだ。早めに行って調弦をして一度曲を弾いてみる。今日は快調だ。ちゃんと右手の小指も動く。

軽くマネージャーと打ち合わせをして、あとはお客さんの入場直前までひたすら練習をした。

開始30分前から入場が始まる。そこでステージ衣装に着替えて本番を迎える。 正直のところステージライトなどであんまり客席なんて見えない。

暗闇に向かって一礼だけしてピアノに向かう。あとはプログラム通りに曲を弾くだけだ。

私の世界は鍵盤と音階と感性だけ。ただただ視界は白と黒。風景が広がるのはそこから先。暗い時もある、明るい時もある。違いなんてただの88音の組み合わせの微妙な違いだけ。これだけでこんなにも、世界が変わる。

音楽は無限大だ。ほぼ限りない。取り憑かれてみれば目の前は広い。

私は全てを、紡ぐんだ。

休憩を挟んでも恍惚は消えないまま。まだ燃えきれてない。

午前の部が終わると、少しだけ糸が解れた。

その足で大学の病院のレントゲン室に行き、レントゲンを取って喜多先生の診察室へ向かった。裏口から入ると喜多先生は、待ってましたと言わんばかりに私を見てにっこりと笑った。

「顔つきが違うね、やっぱり」
「そうですかね?」
「うん。いい顔してる。
はい、座って」

ベットに促されたのでそちらに腰かける。首から下げていた聴診器を耳につけ、「ちょっと失礼」と断り、シャツを広げて私の胸あたりの音を聞いている。

「昨日よりはだいぶマシなようだね。ただあんまりほっとくのも長引くからちょっと注射だけ」

と言って薬を打たれた。ベットに寝てるように言われる。最初は少しボーとしたが、30分くらいで冴えた。

「冴えてきたね?よし、仕事は大丈夫だろう。頑張ってね」

漸く解放された気がした。それから控え室に戻り、軽くパンを食べてから少しゆっくりしていると、あっという間に二時間が過ぎた。

午後の部はまた違う曲を演奏。こちらの方が早めの曲だったり、少し激しい曲をやった。

公演が終わり、立ち上がって礼をしたとき、ふと、拍手の音が遠く聞こえた。

退場して控え室への道を歩いていると、やっと糸が切れたような解放感と達成感があった。今日はわりと満足だ。

少しくらくらするくらいに、テンションは上がっていたようだ。

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