2


「いや、ボーッとした。
 今日は、妹?」

 パンの上にマヨネーズを少し足した。ふわふわ卵とパリパリウインナー。やはり、春夏は怪訝なまま。

「うん、」
「そっか」
「今日、多分……」

 何か言い掛けた春夏の表情はすぐに「いや、」と曇った。
 なるほど、と「遅いん?」と先に聞いておく。

「あぁ、うん、そう…。
 夕飯は一徹に頼んどくよ」

 いや……。
 そういえば味噌ラーメンがあったな。

「いいよ。あの人怖いし」

 春夏が忙しいということは付き人だって当たり前に忙しいのだ。

「まぁ、」
「俺はじゃあ、今日は味噌ラーメンに卵を入れる」
「はは、いいなその贅沢」
「帰ってきたら作ってやるよ」

 春夏は気まずそうに黙り、スクランブルとパンとウインナーを三角食べしていた。

 あぁ、つまり、これは意に介さない仕事なんだろう。無駄接待とか、なんかの。

「…何時?」
「わからん」

 たまにある、そういう日。
 自分には全くわからない春夏の世界。

「あっそ」

 わからないから、想像でしかない。神経質な春夏が兎に角メンタルをぶっ壊して帰ってくるやつ。

 意味はないけど、思うことくらいは勿論ある。

 春夏は修介が不機嫌になった、と捉えたようだ。
 自然と穏やかな表情を作り「今日中には終わるよ」と言った。

 まるで、鼻に付く女の香水が現実味を帯びてくる。想像に事欠かないのが時に恨めしい。

 別に不機嫌ではない……が、してやったりと心にしまい「ふうん」に留めてやった。
 「今日中なんて23:59:59まであるよ」だとか「そんなんやめちまえよ」だなんて意味のない嫌味を言う前に、理性が効くようになったのを大人と呼ぶのだ。

 一度気持ちを前に戻し、病弱だと聞く春夏の妹を想像し意味もなく「妹ちゃんに宜しくな」と、修介も穏やかに返した。

 想像も付かない、見たこともない春夏の妹。名前は確か、「ユリ」だったか。実家で寝たきりだそうで、春夏の義実家との縁だ。
 想像のみなら、鬱病か何かだから外に出られないのだろうと修介は思っている。

「うん。
 そーいやぁ、この前ふと言われたよ。あのメガネの人は元気かって」

 とても、嬉しそうに春夏は言った。

 あの広い家。多分妹ちゃんは本来ならば「ご当主様」だなんて呼ばれる立場だろう。おかげで春夏は苦労しているようだ。

「この前って、結構前じゃない?」
「忙しかったからなぁ…一月は経ったかな」
「はは、じゃあ一月前も今も元気っつーことで。ユリちゃんは元気そうだった?」
「いや…それが、前回は少しダメだったな」

 なるほど。

「まぁ、今年は暑かったからなぁ。じゃあお裾分けだな。今日は元気だといいな」

 せめて、これくらいは言っていいだろう。

「うん、さんきゅ」

 修介には、この穏やかさがわからない。

 春夏は案外、そういう人だったと、10年でわかった。
 多分、おかげで自分は丸くなったのだ。
 大人になれば、人によりこれを「妥協」と呼ぶのかもしれない。そうはありたくないと思ってしまう。

 食べ終わり、当たり前にそれを片付けようとする春夏に「俺がやるよ」と気遣った。

「起こしたみたいだし、いいよ寝てろよ」
「もう起きちゃったからいい。準備して行ってきな」

 きっと早く会いたいはずだ。
 
「わかった。サンキューな、しゅう」

 春夏は素直に譲り、出勤の準備を始めた。
 いつもそう、なんでも一人でやろうとする。

 …だから、早く帰ってきて欲しいな、だなんて、自分はやはり春夏ほど心は広くない。

 これだって、ほぼ一瞬で終わる仕事だし、大体、いつも皿洗いは自分の担当だと言うのに。こんなときに気を遣われるのは少し、虚しくなる。

 たった10年、されど10年。大人になると邪念が増える。
 いや…考え方次第なのかもしれないけど。今日はどうやら、少し卑屈らしい。

 長々準備をする春夏を、ちゃんと待って送り出した。
 細やかなことに、それすら「待ってたのか」と申し訳なさそうにする春夏に、ここまで来るとやはり寂しい気すらしてきた。

「いってらっしゃい、ハル」

 少しだけ噛み合わない。いつもそう。
 ただ、意味はないけど無条件なことに変わりはないから、この生活自体は非常に、愉しい。

 友人、家族、恋人、なんでもいいが一括りに“同居人”。ふと時に、「不思議だな」と冷静になる瞬間が、修介にはあるのだ。

 他者とのパーソナルスペース、“他者”という言葉、壁。こんなものは空気、見えない何かでしかないというのに…いや、だから歯痒い。

 これは、自分の傲慢だ。

 春夏を見送り、しかしもう少し寝る訳でもなく、修介は自分も出勤の準備を始めた。

- 18 -

*前次#


ページ: