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「高梨」
ふと背後から呼ばれた、その透き通るような低い声に、陽輝は我に還り、振り向いた。紫苑が柱に凭れ掛かっている。
「待ちくたびれたよ」
「悪ぃ悪ぃ」
悪びれもなく言って紫苑の元に戻ると、紫苑は何も言わずすたすたと歩き出した。果たしていつまでああしていたんだろう。紫苑もまた、三日月を見ただろうか。
その背中が少し寂しそうに見えた。色々な思いが交差するがぐっと堪えて後についていく。台所に戻ると、ちょうど居間の炬燵の上に時計仕掛けの惑星儀が置かれていることに気が付いた。
無言で野菜を受け取り、土を落とし始めた紫苑を見て、居ても立ってもいられず、その手首を軽く掴んだ。びくっと肩が揺れる。そして不機嫌さと驚きと、何より切なさが入り交じった目で見つめてくる。
「手、冷たいな」
「…うん、まぁ…」
「俺がやるよ」
そういうと紫苑は手を洗い、おとなしく炬燵に入った。惑星儀を暇そうに眺めている。チクタクと音を立てて廻っている。よほど暇だったようだ。
「それ、気に入ってくれてよかったよ」
以前、陽輝があげたものだ。中学校の頃の卒業製作で陽輝が作った。作り上げるのに半年以上かかった。部品などはここの余り物やらなんやらを拝借した。
ぼんやりとただ、回る惑星を肘をついて眺める姿が妙に様になっている。その、どことなく儚げな姿をちらちら見てしまう。本人は全く気付かない。少し、意地の悪いことを言いたくなった。
「今日は三日月だな」
「そうか」
なんとなく核心に迫られた気がして、冷静に返そうと試みた。わりとうまく返事ができた方だ。少しの動揺もこの男には見せたくない。そう思ってただただ惑星儀を眺めた。
今日はわりと冷静さを欠いている。いつこの動揺が暴かれるか本当は不安でならない。
「冬の夜空はいいつまみになるな」
そう楽しそうにいう陽輝を純粋に見れない。本当にそんなこと思っているのかと疑ってしまう自分はやはり、ひねくれているのだろうか。表情を読み取ろうにもこの男は精悍な顔立ちでいつもながら飄々としている。それが少しもどかしい。
「寝惚けたじいさんみたいな発言だな」
「そうかな?」
月は地球の廻りを廻っている。地球の引力は宇宙の規模から見たら大して広大ではないだろう。しかしこの二つの星はいつでも衝突したり、交わることがない一定の距離を保つ。衛星とはそんなものだ。
どうして今頃高梨は、俺に時計を預けたのか。単純に壊れたからだろうか。あの時計のあの時刻を見てこの男は果たして何を思ったのだろうか。あの時計は同じ時刻にたまに止まってしまうと言っていた。それは自分に身に覚えがある。高梨にだって身に覚えがあるはずなのに、何の気なしに自分に預けるあたり、どういう心境だったのか。
自分が気にしすぎなのかもしれない。高梨はそんなにもう、気にしていないのかもしれないけど…。時計を預けた時の表情を思い返すと忘れてはいないのだろうと思える。
あの時計のお陰でこの男は自分を忘れられないだろう。時計が止まったときこの男はいったい何を思っただろう。考えると、胸が痛くなる。
まだあの時計を持っていた。それは嬉しくもあるがそれよりも、苦しさが勝る。
チクタクと刻む一定のリズム。感情をなくすような無機質な機械音。ふと目の前に陽輝が座り、「紫苑?」と呼び掛けられて我に還った。頬へ伸ばされた手を拒否するには、少しぼうっとしすぎた。
なんだよ、と言おうとしたが柄にもなく陽輝が不安そうに見つめているので、やれやれとその手をやんわり掴んで剥がした。何かを言おうとするのが嫌で、逃げるように立ち上がろうとするが、そっと手を包まれてしまいそれも叶わない。小さく溜め息を吐いて、「時計、」と言えばようやく解放され、作業台に移動する。作業台に置いていた眼鏡を掛けた。
作業時にだけ、紫苑は眼鏡を掛ける。特別目が悪いというわけではないが、細かい作業をするにはなかなか視力が足りないのだ。
先ほど開いた時計の中身。本当に年期が入っている。だがさすがは大手メーカー、エポスの商品だけある。ペンダント以外は新品同様だ。確か、エポスの部品は家にも置いてあったんじゃないか。少なくとも龍頭は消耗が激しい。ストックがあったはずだ。
引き出しを引っ張ってみて探してみれば、生憎なかった。それさえあれば直るのに。
熱中しているとふと、肩に何かがかかった。ブランケットだ。そう言えば背凭れに掛けていた。
振り返ると陽輝が、「どう?」と聞いてきた。酷く、優しい表情だ。
「あとは龍頭があれば…。生憎ストックがないようだ」
「わかった」
取り敢えず全てを組み立て直し、眼鏡を外す。
「飯にしよう?」
そう促され、居間に戻る。時計仕掛け惑星儀を片付け、ガスコンロを置いた。陽輝が買ってきた酒を注いで軽く晩餐を始めた。
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