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 ほとんど早歩きで小児病棟のナースステーションに逃げ込んだ。

 夜勤の看護師は「あの…」とあたしを見て困惑していたが、「御崎みさき…美智佳の、」とだけ言えば、納得したようだった。

「学くんの……」
「…友人です。あの、頭、打ったとか、怪我とか」
「あぁ、大丈夫ですよ…経過も大丈夫だと思います」

 一人、柔らかい口調で言った看護婦は控えめに笑い、「ちょっと前に寝ちゃったんで」とナースステーションから出て来てくれた。

 そのまま歩きながら「お薬効いたみたいで」と言われるのにとぼとぼ、所在なくついて行く。

「…少し、興奮はしちゃってたんですけどね。
 転んだときの衝撃とかも、血圧とかを見る限り、本当に大丈夫そうで…」

 声を潜めている。

「…お母さんが、守ってくれたんですね。学くんも、丈夫な子みたいで」
「………」
「ちょっと、頬っぺたにも傷はあるんですが、それよりも膝かな…。結構な擦り傷が出来ちゃったんですけどね。大きいから少しだけ掛かっちゃうかな…」
「…そうですか」
「お母さん……本当に辛いですね」

 案内された部屋は個室だった。
 6人部屋もあったけれど…やっぱり、騒いでしまったのかもしれないな。

 看護婦がそっとカーテンを開けた。
 薄暗いライトに照らされた子供は、赤ん坊ではなかった。
 小さい頃の美智佳に似てる。
 目蓋が腫れてしまっているように見える。けれども健やかに寝息を立てているのに、これだけはよかったと思えた。

「…ね?」

 息で声を掛けてきた看護婦に無言で頷く。
 頬に貼ってある大きな絆創膏。少し痛々しい。

 またさらっとカーテンを掛けた看護婦と共に一度病室は出たが、「あの、」と気付けば声を掛けている。

「…今日、ここにいてもいいですか」
「え?」
「……起きたとき…きっと怖いと思う」
「…おばあちゃんは、大丈夫ですか…?来て、いらしてると聞きましたが…」

 ダメだろうけど。

「…学は、凄く…我慢強い子でって、前に美智佳が…」

 過った美智佳の言葉をなぞっただけだったのに。
 息が切れる、血圧が急に上がったように、一気に喉が潰れて涙腺も驚いたらしい、ぼたぼたぼたぼた、瞬く間に涙が出てきてしまった。

 美智佳。

 甘い、ベビーパウダーのような匂いがした。
 看護婦さんがあたしを抱き締め「よしよし…」と、まるで子供をあやすように背を擦ってくれたみたいだ。

「あっ……の子はっ……っ、親父にも、捨てられてっ、」
「うんうん」
「殴られて、でもっ……ずっと美智佳をっ…っ、守ってて、」
「…そうなんですねぇ、」
「うっ…っ、ひっ、」

 現実が一気に身体を巡る。
 美智佳、だからやめときなって思ったこともあった。けど。

 暫く言葉も出なかったあたしに「何か飲みますか?」と、看護婦さんが優しく言ってくれたのに、余裕もなく頷くことしか出来ず、そのままナースステーションに連れて行かれる。

 他の看護婦、看護師も「大丈夫!?」と声を掛けてくる。きっと、学にだってこうだったのだろう。

「まぁ、ここに少しいたらいいんじゃないかな」

 さっきの看護婦さんはお茶を買ってきてくれて、それから暫く何も言わずにいてくれた。
 年配の看護婦が、「気の毒よねぇ」と常套句を吐く。

「学くんも、きっと…大丈夫だから。お母さんが守ってくれたんだし、」

 美智佳。

 過去の感情も甦りパニックになりそう。
 美智佳、あたしね。

 ずっと溢れそうだった、溢れそうで怖かった。
 美智佳もいつも、耐えていた。あの実家での寂しさにずっと。

 けれどさっきの学の寝顔が甦る。子供は無垢だから羨ましい。

 少しして、泣き止みはしなかったけど。
 ただ、やっぱり踏ん張って「朝まででいいから…」と、喉が枯れそうだった。

 仕方なく、というか特別に、というか。
 看護婦さんはまた学の部屋へ案内してくれて、「何かあったら」とだけ言い去っていった。

 学は健やかに寝ている。

 美智佳。
 ずっとずっと、好きだったんだよ、美智佳。あたし、ずっと大好きだった、それは心が汚れそうなほどに。

 記憶の中の美智佳は穏やかに微笑むだけで、それはあの、目が潰れそうな光に飲み込まれて行くようだった。

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