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玄関で家の匂いを感じた瞬間、昇はかなり冷静になった。あれは、一体なんだったのかと。
何も普通じゃねぇ。
しかし、どうしたものかと悩んでも、昇のスマホに何一つ変化はないし、暇な休日が煩わしく…。
木曜日から欲求不満だ(一瞬、減退しそうになった事件は起きたが)。
もう何かでスッキリしまえと動画を漁るも、何系AVを観たところであの出来事がぐるぐると頭を巡るのみ、一つも集中が出来なかった。
これが、土曜日。
日曜日には全てを諦め力を抜くことにし、まるでおかしい、何故賢者タイムになっているんだと悶々として時間が過ぎ行くのを待つだけになった。
件の月曜日が訪れる。
まぁ、帰りはいつも通りな感じに…なってたよなぁ…。
いや、喉元過ぎればなんとやら精神で行こう、いや、行くしかない。
いつも通り、「うっす、おはよー」を済ませてしまえば問題はないのではないかと思えたが…。
あれ?
部署の出入口で違和感に気付いた。加東がまだ来ていない。
少し意外というか、そういえば大抵の場合、加東が先に来ていて「おはようございます」と言われるのが定番化していたのかと変に気が付いた。
ま、いっか…。
まずは荷物を置き、コーヒーを入れようとカップ式自販機の前に立つ。
「おはよーございまーす」
渋谷だった。
「おはよーさん」
なんか少し、どうにも違うなぁと思いつつ、昇は「渋谷っていつもコーヒー?」と聞いた。
「あ、はい」
「ミルクとか砂糖とかカフェラテとかは?」
昇が追加で聞くと、渋谷は「ん?」と、少し考えたような顔をする。
そしてすぐ、何かに行き当たったように「ああ!」と声をあげた。
「珍しい、まだ加東ちゃん、来てないんだ!」
「…ん?」
「いや、なんか、そんなん聞かれるの久しぶりだなって。朝なんでラテで」
「…んまぁ確かに俺も「あれ、いねぇな」って違和感あったわ」
自販機のラテは何種類かあった。普段選ばないので全く意識を素通りしていたらしい。
「えっと、何ラテ?」
「あ、すんません。普通の…てか、俺自分でやりますわ」
ふと、側の台にあるコンディメントの砂糖が、1本しかないことに気付いた。
ついでだからと、昇はしゃがんで棚の引き出しを開ける。
渋谷がボタンを押しながら「すんませんあれ…交ぜる棒もないみたいっすわ」と追加報告をしてきた。
「あぁ!すみません!」
「ん?」
ラテを待ちながら砂糖を補充していると、奥の方…開発部だろうか、新人らしき女の子が「さっき来たばっかりで、今やろうと思ってて、」と弁明しながらやってくる。
「あぁ、」
空気を読んだ渋谷が、マドラーを補充しながら「君何飲むー?」と聞いてやっていた。
「えっ、えっと」
「甘いのとか好き?」
「あ、えっと…ぶ、ブラックで…」
「しゃっきりするよねー」
渋谷がブラックを押すのに「すみませんなんか…」と、女の子が更に気まずそうにする。
「ん?別に?」
「えっと」
「あ渋谷、俺微糖がいい」
「え、意外っすね」
「いつも加東がなんか、微糖でミルク持ってくんだよ。朝は砂糖がいいとか言って」
「へー」
台にブラックを置き微糖のボタンを押した渋谷は、ラテを手にしてデスクへ向かった。
「その…すみません…」
恐らく、古臭いタイプの上司に「新人はこういうことをやれ」と言われているのだろう。
「いや、別に。たまたま見掛けただけだから」
まぁ、わからなくはない。要するに細かいことに気付け、と。そういうところが優秀な接客に繋がるというのも。
昇はミルクを一つ入れながら「試しにどうぞ」と、女の子に砂糖、ミルク、マドラーを渡してみた。
そもそも、そんなものを“命令”しているような上司は、どうせ先人からの右倣えで、新人を奴隷か雑用かなんかだと勘違いしている。単なるパワハラにしかならないと気付いていないのだ。
それは結果「より良い接客」から離れていく矛盾。実際、この子はこうして気まずそうなのだから。
「たまには気分を変えて、肩の力を抜いてみな。君、なんか俺に謝るようなことしたっけ?」
「えっと…いや、こういうのは」
「言うヤツいるよなぁ。ムカつくから一回くらい、中身全部塩とかに変えてやりたいもんだ」
「ははっ、」
新人ちゃんは少しだけ笑ってくれた。
それにも「あ、すみません」と言うのだけど。
「いや…、流石にそれはやりませんけど…ありがとうございます、なんか」
物は試しか、新人ちゃんは昇が渡した砂糖とミルクを混ぜ、「あ、いいかも…」と一口飲んで息を吐いた。
「あ……来てない」
新人ちゃんがふと、加東の席を見て呟く。
「なるほど、加東と君がやってくれてたのか」
「いえ、あの、会うことがあるので、よく。見掛けたからって言って…やってくれてたりするんです、サトウさん」
まぁ、加東なんだけどね。
「あ、すみませんでした。…ありがとうございま」
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