4
根気強くもう一度チャイムを鳴らすと、風呂場から「はぁい!」と、男の怒鳴る声がした。
「すみません、橋前交番の」とわざわざ風呂場の窓に話し掛ければ「いま風呂入ってるんですよね!」と男の声で返ってくる。
「そうですか、お忙しい中失礼致します!最近刃物を持った不審な男の目撃例がありますんで!鍵掛けてくださいね!また後日伺います」
語尾を小さくし一度足音を立て離れる素振りをし、また向かいにまわった。
やはりバルコニー側の電気はついているが無人の雰囲気。隣の部屋も明かりはなく、多分誰もいない。
足を忍ばせまた風呂場の側に立つと、「ぅっ、」とくぐもった…まるで押さえつけられている、口でも塞がれているような声と、きゅっきゅと風呂場で鳴る音。
「声出すなよ、響くぞここ」
…決定的な一言だと思った。
本人達に気付かれないよう、一度ドアノブをそっと回してみる。あっさり開いてしまった。
瞬間に聞こえる、外ではわからない音、はっはっと、まるで獣のような息遣いには覚えがあった。
…扉をそっと閉めて交番に戻る。
なるほど、そういうことか芳沢春雪。しかし、これを母親は知っているのだろうか。
彼はしかしはっきりとしたSOSをまだ、こちらに発してはいない。
強いて言うなら一昨日ここへ送った時にしゃがんだことだ。足が竦んだのかなんなのかはわからないが…。
…悲しくなるなぁ。彼は、何かを守っているのかもしれない。
『こういうとき、切りたくなる』
そんな自己犠牲が青少年に許されるわけがない。しかしいま誰にも手立てがないなんて。
交番に帰り、今は「男がいました」とだけ報告した。
「一言二言会話はしました。まぁ、相手は風呂場から対応していましたが」
「……母子家庭だよな?」
「はい」
「この時点で充分」
「ですが、母親が通うクリニックの医者に聞きました。恐らく母親は重度の精神障害にあたる、その母親は「息子の為」と言っている、その状況下で支援を打ち切るのは」
「それが正義か?
そんなもの、本来男に頼れば良い。資金流用があればそれはその家庭の癌だ。
それに男がいる程度で打ち切り、という意味にはならないだろ?言うからには、同棲していそうだということか?」
「もしくは頻繁に出入りはしてるでしょう。そもそも今回は風呂場です」
「例の芳沢春雪は」
「…出ませんでした」
「いなかったのか?」
「いや……。
もう少し詰めた方が良いかもしれない。
例えばですが、経済的に余裕があり睡眠薬を集めている…とすれば、犯罪に関係するかもしれないし」
「それは確かにな。まぁ、わかった」
その件の引き継ぎはまだ、誰にもされない。
帰り、署長と共に芳沢家を外から眺めた。
リビングからはテレビの音がして、なんとなく、いるのは先程の男だと認識した。
その影がバルコニーの方へ動き、慌てて遠目に退けば、あの男が灰皿を持ちタバコを吸い始めたのだった。
本当に一見普通な中年男性。髭や髪は整えている、やはり定職に就いていそうに見える。
署長に「撮っとけ」と言われたのでデジカメで男の写真を撮った。
そして帰路に着く。
影は一人分、つまりあの男のものだけだった。では芳沢幸春はどこにいるのか。無難な解答は部屋、で収まるだろうが。
…いまも、手首を切っているんじゃないかと思うと気持ちがそわそわする。
それを読み取った署長が「慌てるな」と言った。
「言いたいこともわかった。確かに複雑かもしれないが、結局出来ることは少ないかもしれない」
「…はい」
「明日は来るかな。明日も当直だよな?夜勤だったか?」
「いえ、夜勤は今週…水、土ですね」
「今日来たと言うのはお前が感じる通り、SOSなんじゃないかと思う、そのきっかけを作ったのは西賀、お前なんだ」
「…我々は市民を幸せにすることが仕事で」
「履き違えている。だから導き出せないんだ」
「…は?」
「『市民への不便をなくす』のが仕事だ、その中の犯罪分野な。仕事を完遂したからといって、幸せかどうかはわからない」
ついつい署長を睨むように見てしまったが、署長は溜め息を吐き「そこを間違うと、大惨事に陥ることがあるし何より身が持たないんだよ」と言った。
「自己満足が先走ってはならないと言う話だ。お前、選んで報告しているだろ?」
「……」
「だが、それを俺は言及をしない。出世への近道だぞ、西賀。まぁ俺は駐在は長いがな」
解すように柔らかく署長はそう言い、しかしメリハリを付けるように「地域に密着すると、感覚がぼやけるのもわかるんだがな」とも言った。
…長いだけある。これまでの俺のモヤモヤが言い当てられた、いや、明確化された気がする。
「一度持ち帰り問うと良い。我々はあくまで受け身だ。
考えすぎたときに行き着くのは結局『法律』という理性なのだし」
確かにその通りだ。
人が様々いるからこそ一本化してある、それはわかるのだけれど。
「理解しにくいのもわかるよ」
ご立派な人間になりたいとは…個人的にはほんの少ししか思っていない。だから迷うのかもしれない。
自分は正義でなければならないのだという固定観念が凝り固まり、漸く解れても小骨が一本だけ喉に引っ掛かっているような。
それに気付くのが怖い、見て見ぬふりをしなければ、そんな所長の気持ちも理解は出来る。
そもそも俺は何故、これほどまでに彼を気に掛けているのだろうか。
- 19 -
*前次#
ページ: