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…男は風呂場で誰かに話しを掛けていた。
あの家から母親が出て行ったのも黙視したし、あの時、芳沢春雪が「家に帰らなきゃ」と言ったのも聞いている。当たり前に男の話し相手が芳沢春雪だとは認識したが。
あの……圧し殺した声。
帰宅し寝る前、突如頭の中にふわっと、湯気の中の景色が浮かんだ。
シャワーの音、くぐもった声、手ぇ付いてと言った言葉の意味。
…夜勤は減ったんだけどな、疲れているのだろうか。満喫で見たあの…薄い色の綺麗な目。結局抜かなかったし…。
自分は確かに26で若者の分類だと思っていたが、そう言えば回数も減っていて落ち着いたのだと思っていた。
忙しすぎるのだろうか、何故か勃起してしまった。
あの、穏やかな表情の裏には闇があると感じ取ったけどあぁ、考えるのをやめたい。
けれど理性は生理現象に負けた。最悪だ。
少し息を潜め理屈を捏ねくり回す。俺は一体、何をしているんだと。
こんなこと、誰も知らない平和なのに。俺は一体何になりたかったんだ。
小さい頃から別に、“正義の見方”のようなものになりたいわけではなかった。けれど気付けば夢として目指していて、それは叶った。
では叶えた夢はどうだったかと考える。
「こんなものか」と思ったそれは、賢者タイムに似ているような気がする。
それに自ら向かっていく本能がわからない。
いつもなら非行少年の処理。どうしてこんなに引っ掛かっているんだ。
『思うけどなぁ、西賀』
高梨に電話越しで言われた『仕事は切って貼りつけるようなもんだろ』と。
『精神科医だから言うけど。自分が豊かでない人が多い。
俺の仕事を見せてやりたいもんだ。一人看てのめり込む毎に、俺は何回一緒に自殺してやんなきゃなんないんだ』
「……そうだな」
『…それでも報われないことがある。
はは、久々に話す内容がこうも暗いとな、互いに仕事にまだ乗れてないのかな。心が痛い。今度飲みに行こうな』
電話は終わった。
報告書への内容は、毎度のパターンなら明日か明後日くらいには芳沢夏菜は高梨クリニックへ診察に行くだろう、と、書くには乏しいもの。
取り敢えず芳沢春雪に伝えた「火曜日」、ここでも来てくれたら幸い、明後日は夜勤か休みかになる。
本来ならば来ない方が良いはずなのに。
しかし芳沢春雪は翌日、まだ下校時間よりも早い、12時頃現れた。
マスクをして「こんにちは」と、笑顔な癖に大体わかった、顔色が良くない。
「あぁ、昨日の。随分早くに来たね、こんにちは」
「早退しちゃったんです」
へらへらというか、ふにゃふにゃした彼の腕を然り気無く見ても、普段はどうやら袖口のボタンを閉め時計をしているらしい。
「確かに具合が悪そうだな」
「さっき病院に寄りました」
大人の無言な空気が走る。矛盾だ。
高梨のクリニックには芳沢春雪は一度も現れていないらしいし、未成年だ。どの病院でも大体親が同行するものだし、何よりいま彼は学生服だ。一体何時から登校、早退しどこの病院に掛かればこの時間にこんなにへろへろな状態でここに寄れるというのか。
署長は「カテキンは風邪に良いらしいよ」と言いながら茶を、自分の昼飯のついでだという|体《てい》で芳沢春雪の前に出し様子を伺っているようだ。
「それで」
「昨日はすみませんねちゅーざいさん。友人が来ていて対応出来ず」
俺の質問を先走るように遮り答える少年の完全な嘘に、本人もわかっているはずだ。
最早、開き直っているのか、風邪か何かのせいで頭が回っていないのかはわからないが。
俺がチラッと署長を見ると署長は空気を読み、奥へ引っ込んだ。
少年のマスクがはぁはぁ、息使いと同時に凹んだり戻ったりしている。
「昨日、いたんだね、家に」
「……帰るって、言ったじゃん」
俺は署長に「送ってきますね」とわざわざ言ったが、やはり少年は「待って」と遮る。
「……感染らないようにマスクした。風邪引いた。少し休憩したい。ここまで来れたから大丈」
「母親はどうしたんだ?」
「…学校で、具合悪くて、だから、ちょっと寄っただけで」
「昨日、何されてた?」
小声で、単刀直入に聞いた。
彼は黙った後にふっとデスクに突っ伏し「関係ないよ」と急に距離を置く。
「…でも、来たんだ」
「…勘違いしないでよ、寄った」
咳き込み、「寄っただけ」と言い直す。
「…まぁ、いいけど。置いとけないから送ってくな。ここはメンタルクリニックじゃないけど…」
声を潜め、「あの部屋かはわからないけど」と口走る自分。
「次に何かあったとき…まぁ、明日なら俺は夜勤だな、明後日は休み。で、金曜が当直。あのくらいの時間、カーテンをほんの少し開けておけ」
そう言うと少年はパッと顔を上げ俺の顔を見るのみで。
熱でもあるのだろう、少し涙目なような。その視線が心に刺さり、痛んだ。
「………風邪は空気の入れ換えも必要だぞ」
「…ちゅーざいさんさ」
「ん?」
「意地悪なんだね、」
意地悪、なんて悪態を吐きつつ笑ったかと思えば、時計とボタンを外し傷を見せてきた。
増えているか、わからない。先日のように処置をすると、マスクの中は見えないが眉が少し寄った。多分、歯を食い縛っている。
「…どうしてこんなことするの」
ポロッと口から出てしまった。
多分言ってはいけないことだったと気付けば「痛くて寝るの」と、彼は声を捻り出した。
「痛いから、薬飲んで寝る。だから嫌なときにやる」
「…じゃあ、あれから嫌なことあったんだ。あの時も嫌だったんだね」
「…メンタルクリニックじゃ、ないんでしょ?」
「知り合いにいるけど行ってみる?」
「行ってるよ、母さんが連れてってくれる」
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