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 彼は少し俯いた。

 人の目を見て嘘は吐けない、か。健全だよ、君。本当にごく普通の学生であり、人間じゃないか。

「…高いって聞くからなぁ。まぁ、無理にとは言わないけど、糸口になればと思って」

 ガーゼを乗せテーピングし、袖を戻してやる。
 そのとき彼がポツリと「案外上手くやれてないのかな、俺」と言ったのは聞き逃さなかったが、聞こえなかったふり、まだ反応は見せないでおこうと思った。

 人間、そんなもんなんだよ。

 これ以上踏み込んで助言するのは仕事上だけじゃない、人間として綺麗事になる気がしてしまう、それに心が痛い。
 このエゴや愛は一体何に向いているのか。わからないままでは彼を傷付ける、使い古した刃物でしかなくなってしまう。

 彼は多分、もっと色々な場所が痛くて、麻酔を掛ける手前なのだ。

 諦めたのか本当に身体が辛かったのかはわからないが、彼はその後あっさりと一緒に帰宅してくれた。しゃがみ込むこともなく。

 ただ、彼は部屋に戻る前に「ちゅーざいさん」と、心許なく振り向いた。

「…メンタルクリニックじゃないけど」
「あぁ、」
「また切ったら目、覚まさせてくれる?」

 あぁ、そうか。

「癖になられても困る」
「……ありがと。
 約束、守るようにまずは」
「頑張らなくていいから」

 彼は少し黙った後にふっと笑って「メンタルクリニックかよ」と…遠目でもわかる、網膜は輝いて見えた。

「うんじゃあ、それでいいよ」

 また不思議そうに俺を見た少年は、ふっと表情を柔らかくし「じゃーね」と部屋へそっと戻って行った。

 向かい側に行き部屋を眺めると、昼の、人通りも少ないアパート。どこだという断定は出来ないが概ねそう。バルコニー隣の部屋あたりで微かに、女の喘ぎ声が聞こえる。

 多分今の今までは聞こえなかったあの男の声が、まるで煽る…いや、聞かせるかのように聞こえてきた。
 バルコニー側の、恐らく布団があるだろうカーテンの向こうで、芳沢春雪だろう、人が寝転がった気配がする。

 …あの男は、そうか。
 彼に精神的な苦痛を与えているのかもしれない。なるほど、これで切りたくなって眠るのか、君は。

 今日は母親が高梨のクリニックに行くという予想だった。あとで確認しなければ。
 …本当に彼が今日、学校に行ったのかはわからないが、他人が見ても具合が悪そうだった。

 …高梨が言っていた、代理ミュンヒハウゼンは病気を子供に肩代わりさせ看病をし周囲の目を引く。薬物使用もよくあることらしいが母親は何故そのようになってしまうのか。
 医療費だって全額免除ではないのだし、精神科は高いと聞く。

 俺の情報から子供が本当に実在したとわかり、子供を病院に連れて行かない理由がわからない、この病はなんだと迷い込む高梨の悩みも確かにそうだ。

 子供を看病する親、病院に連れて行く親、これが代理ミュンヒハウゼン症候群の症状としては一般的なんだろうが、俺はいま感じた。
 この母親の虚偽、隠したい部分が「ネグレクト」なのではないかと。それを疑わせないように病院に連れ回す親もいるそうだが。

 ネグレクトならば今、春雪くんが風邪で苦しんでいるのなんて、本当はどうでもいいのだろう。リスカ痕の腕を掴んだのも、どうでもよかったから。

 春雪くんは未成年、子供で、家の中では恐らく一番の弱者だ。理不尽の対象として向かいやすいのも理解する。

 併発。

 …これは確かに複雑だし、本当に誰もなかなか気付けない、気付いたとして誰が手を差し伸べられるのか。
 事件が起こらないと動けない、謂わば彼を囮にした俺の強行突破が正しくないのはわかっているのに。

 元から俺は正義の見方ではない。これは綺麗事などという簡単な問題ではないから…。

 交番に戻り、彼の時計が忘れられていることに気付いた。
 ……それに、胸が痛くて仕方ない。

「…署長」
「おぉ、お帰」
「明日の勤務、遅れても良いですか」
「…どうした」

 俺は気付けばその時計を握っていて「勤務時間前に彼の家を…」までしか言わないうちに署長は「わかった」と言ってくれた。

「明日の引き継ぎは確か半田くんだ。まぁ、聞かなかったことにするが、事件があれば俺だな、それは」
「…すみません、非番の日に」
「勘違いするなよ。非番は自宅待機だ」
「…はは、休み返上になるのはまぁ、覚悟ですよ」
「そこまで気になるなら仕方ないな。俺にも若い頃はあったよ。だがまぁ、これがなければお前は今頃どうせ延々と違法駐輪の取締ばかりだったな」

 別に、この件だって印象が良くなるかは微妙だが。

「…少し、休むのもありだけどな。終わるまでお前は休めないんだろうな。
 まぁ仕事はやる男だが、今回はいつもより身入りが違うな」

 自分でも確かに、理由はわからないけど。

「…俺は正義の見方でもなんでもないんです」
「そうだな。良い切り捨て方だよ」

 そうか。
 別にGOを待っていたわけでもなんでもない、ただただ自分にいま、我慢が利かないのだ、どうしても。

 ここまで来たら、一度押し付けること、押し付けられることを互い・・に知った方が良いのかもしれない。

 署長にはとにかく、頭を下げた。
 明日何か見つかれば、いや、本当はない方がいいのだが。

 俺は君のあの姿を、これからどれだけ年を重ねても忘れられないだろう、その時そう思った。

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