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「水の中で、呼吸が出来たことがあったの」

冬の寒いベンチの上で、湯澤がそう言った。僕には何のことだかわからず、返事を逃した。時々、彼女にはこういうことがある。

「ずいぶん昔の話なんだけどね」

ベンチの上で体育座りをしている。
寒いのかな。
目の前にある自販機にコインを投入し、ココアを二本購入した。

「寒いだろ」
「うん。ありがと」

一本を渡して湯澤の隣に腰掛ける。湯澤は黒いピーコートのポケットからタバコを取りだし、火を点けた。

「僕は泳げないから、あまり考えたくないな」
「それはもったいないね」
「うん、そうかも」

缶がちょっと熱い。
手のひらで弄びながら僕は彼女の横顔を眺めた。白くて線みたいな煙が、黒くて長い髪をすり抜けるのが綺麗だと思った。

白い蛍光灯は月明かりに似てる。彼女はずっと、蛍光灯を眺めている。

「水の中から見た光は、ぼんやりと広くて綺麗なんだ。ふと顔だけ水面に出した時、現実ってこうだったと思い出す」
「水の中から見る?」
「そう。ゴーグルもつけずにね。
最後に見た景色がそれだったら、ちょっと幸せかもしれないなって思うの」

タバコ灰が下に落ち、湯澤は目の前の灰皿で火を揉み消した。その動作が何だかぎこちなくて、僕は何となく、彼女の脳はいま過去にいるんだと思った。

湯澤は、誰の話をしてるんだろうか。
僕以外の、過去の男だろうか。

「でもそれは、ちょっと苦しい死に方だね」
「酸素がないからね」

本当は、そんな寂しいことを言わせたくないのだけれど。

「さ、帰ろっか」

湯澤はベンチから立ち上がった。

その背中が少し、遠い。


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