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√朝顔が頼りし竹にもふりはなされて うつむきや涙の露が散る
夜が更け始めた頃。色町が艶めき、人々は休息と活気づく時間帯だ。
中でも今日の今、色町のとある一角にある“入江屋”という男宿は、何時もよりも客足がよい。
入江屋の広間に、客や色子が集まっていた。
√井戸の蛙とそしらばそしれ 花も散りこむ月も見る
その集団が、一人の人間を取り囲んでいる。濃紺の着流しに黒色の縞帯が、男をほの白く際立たせた。三味線を弾かせれば入江屋の色子よりも遥かに上手い。
細身で、少し色素の薄めな髪と右目元の泣き黒子、その姿は歌舞伎役者の女形顔負けの美しさであった。
「あれはなんだ、番頭かね?」
「いや、ありゃぁ町の扇子屋だ」
「そりゃぁ、もったいない」
客が口々に話す。
一通り弾き終わると扇子屋は三味線を丁寧に傍らへおき、上品に両手をついて頭を下げる。
「今宵は入江屋にお呼びいただき、ありがとうございました」
観客から酒臭い喚声が溢れた。再びあげた顔から表情は受け取れない。
「まだまだ夜は浅いです。是非、この入江屋で楽しんでいってくださいませ」
「お主、芸者か?」
「いえ。私は町で扇子屋を営んでおります」
すると、客の中でも一際な巨漢の、いかにも武士階級の上士である40代くらいの男が、酔いきり垂れた目でぬたりと男に視線を張り付けた。
「お主、名をなんという?」
「一之江鷺と申します」
口許をだらしなくにやけさせ、呂律の回らない口調で問う。だが一之江鷺は、特に何も感情は出さずに名乗った。
「なるほど。鷺のように美しいな。
今からワシの部屋にこんか?酒をたんまり飲ませてやるぞ」
「生憎と、酒はめっきりでして…。
皆様、ありがとうございました。これにて失礼いたします」
入江屋の店主と目で会話をし、まるで役者のような作法で鷺はその場から立ち去った。
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