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帰る前に、一杯飲みたいなと考えた。八ツ半ぐらいだし、時間的にはちょうどいい。
色町からでて、家の近くにある居酒屋“千草”に入る。

「おぅ、鷺ちゃん!」

友禅染屋に丁稚奉公している羽田恭太郎が、すでに飲んでいた。顔がすでに赤らみ、口の回りが危うい。

鷺は、恭太郎の向かいの席に掛けた。背負っていた三味線を丁寧に横に置く。若い番頭が注文を取りに来る。

「何にしやすか?」
「とりあえず…麦焼酎を下さい」
「鷺、飯は?」
「まだ」
「大根の煮付けを出してやってくれ」
「へい、かしこまりやした」

恭太郎は鷺の好みを知っている。性根が真っ直ぐなのでこうして自然に世話を焼いてくれるのだ。

「今日はどこへ行ったんだ?」
「入江屋だよ」
「あぁ、客層が上級だって言ってたとこか」
「ああ」
「大丈夫かい?」
「弾くの好きだから。まぁなんとか」

すぐに酒と煮物が運ばれた。鷺は手をちょんと合わせ小さく「いただきます」と言ってから食べ始めた。

ふと、恭太郎の斜め前からの視線に気がついた。目が合うと恭太郎はにやっとして、「お前を見たらちょっと絵が浮かんだよ」と言う。

「着物?」
「おう。お前、きっと黒蝶が似合うだろうね」
「黒蝶?」
「薄紫に一匹」
「お前がいると着物に困らないな」

麦焼酎を傾ける。酒が入り一度瞼を閉じた。酒屋の夜の空気がそこに流れている。それを感じとると、自然に楽器の音色が耳に残り、聞こえる。目を開けると、隣に寝ていた三味線を構えた。

中棹の重みが心地いい。木の質感、酒の湿り気、弦の張り。客が一気に鷺を見て、集まり始めている。

「おい!今から一之江鷺が弾くぞ!」

恭太郎が客に呼び掛ける。再び目を閉じ、少し自分に空虚になった。

自分は音にとっての空気でいい。ここにはいないのだ。

観衆が息を飲んで待っていることを鷺自信は忘れている。ただ、今無言になった張っているような歓喜の空間が好都合だ。

そのうち客は、少し焦れてきた。それほどに長い間、鷺は三味線を持ち、空の一点を見つめている。恭太郎だけは期待で待ち続けた。

客が、そろそろもういいか、という雰囲気になったとき、鷺は手を動かし始めた。

最初の一音が弦の摺り音。これは狐火を表しているのだ。摺り指の後に一音出してまた摺る。気迫と哀愁と憎しみが眼光と爪に光っている。

その妙な色と息を飲むような現実に、客は身を乗り出しそうになっていた。


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