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 微かな木々の囁きの中、低いような高いような音がする。

「おとう、」

 側に寝転ぶつゆは、月明かりに背を向け「音がする…」と静かに言った。

「……子供が泣いているのかな…?」
「…春先だからなぁ、猫じゃないかな」
「猫?」
「雄が雌を呼ぶんだよ。でもこれは……喧嘩でもしているのかもしれないな。
 朝になるまで続くかもしれないね」
「う〜ん…」

 露は顔まで布団を被った。露が眠りについたら、顔から布団を剥がしてやろうとさかえは再び目を閉じる。

 二本向こうにある長屋の行商では最近、鼠が流行りつつあると耳にした。豪商達が「小さくて可愛らしい」と買っていくらしい。

 その影響で猫が山に入り込んだのかもしれない。近頃革張りの依頼が増えたのもこれに起因していそうか。
 それなら、今年は備蓄庫を鼠に漁られる心配が減るかもしれないが…川の網は少し考えなければならないかもしれないな…。

 露と二人ではそれでも、充分ではある。それとなく、街から来る商人たちと雑談でも交わしておいて損はない、互いに。

 ふと、置いたままの三味線が目に入る。去年、一の糸巻きが鼠に齧られてしまった。

 …別にもう、弾く事もないから気にしないことにしたが…。
 明日の山登りは、露にも注意を促そう。猫は引っ掻く。

 寝息が聞こえてきたので、口元から布団を剥がしてやった。こうして寝るのが癖のようだが、やはり息はしにくいようで、気付くと眉を寄せているのだ。

 …そろそろ露の帯解きを考えないとな…。

 露と暮らし始めたのが、髪留めの頃。
 三つ子の魂というのであれば自分など、露にとっては最後の「枝」のようなものになるが、栄には子供の世話など経験はなく、結局髪留めをしてやることが出来なかった。

『女じゃおいらの立場がねぇんだ、売るしかねぇ』

 露を置いて行った知人はそうは言っていたが、それでも結局名は売れることがなく、西へ上ったと聞いて以来、いまはどこにいてどうしているのかすら、わからない。

 ある遠い日に託されたそれに困惑を覚えなかった訳ではなく、しかし抗おうというものでもなかった。

 想像は容易い。その調子で江戸から上方に向かったところで、より名は売れなかっただろう。
 露の実の父は名門分家に弟子入りという形で婿になった男だ。

 そこから飛び出し上方で売れようなど、夢を見ながら自ら潰してしまったわけだが、露がこうしてただの男の元へ置いていかれた事実があるのだから、名門分家の方針はそれだったのだろう。

 女流という時代ではないし、確かに跡取り問題とあれば幼い女児などそうするしかないというのもわかる。

 知人が居なくなったあと、その分家からのし上がった者の名も聞かない。
 結局、妙な伝統と確執など大したものではないのだとわかれば明日は我が身。
 自分もこの可能性にぶち当たる可能性が高かったのだろうと考えると、足を洗って正解だったのかもしれない。自分も、しがない三味線方だった。

 …今夜は幸い…いや、皮肉にも、猫のお陰で目を閉じることがないかもしれない。
 こうして過去へ思い馳せることにも慣れ親しんだがやはり良い気な話しではない。そんな最中に眠ってしまうと、夢見が悪くなることがある。

 ……この鳴き声は、縄張り争いだろうか…。

 それにしては甲高い気がしなくもない、子猫かもしれない。山に迷い込んだ親猫が出産した、等であれば危ないことも多いだろう…。ここ数日は杣人そまふも出入りしている。

 明日は山菜を取りに行く予定だし、気に掛けようかと思いながら、栄は眠りにつくことにした。

 何事も拘らない。なすがままに生きていく。この生活になって、それは新鮮で気楽なものだった。

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