玖 君が噂の



 突然知らされた衝撃の事実に放心状態の女性を、あの世とこの世の境の門番である牛頭馬頭に渡し、現世に帰ってくる頃にはもう既に十六時を過ぎていた。太陽は少しずつ傾き始め、夜がもうすぐそこまで迫っているのが感じられる。

「今日はひとり回収するだけで精いっぱいだったな。次からはもっとスピーディーに仕事が済ませられるといいんだけど……」

 朔は困ったようにため息をつく。もしもここに鬼灯がいたら「甘い」と金棒で殴られるだろうと想像できるほどの手際の悪さだ。これから続けていけば、もう少し効率も上がるんだろうか……。朔は内心不安になりつつ、帰路につく。

 自宅に向かって歩きながらそんなことを考えていると、どこからか微かに声が聞こえた。ぴたりと足を止め、音の詳細を詳しく聞き出そうとする。よく聞けばそれは普通の会話ではなく、男ふたりが言い争うような声だった。耳をすませ、音のした方向に足音を殺して進む。

 あと壁一枚、というところまでたどり着いた。男たちは未だ激しく言い争っている。金がどうだとか山分けがどうだとか。強盗でもしたんだろうか。現世の犯罪に口を出すつもりはほとんど無いが、聞いてしまった以上そのまま放置していくわけにもいかない。

 しばらく聞き耳を立てていると、刃物が肉を切る音と、男の鈍い声がわずかに響く。まさかと思い、慌てて朔は壁の向こうへ向かった。

 壁の向こうでは朔の予想が半分近く的中していた。地面に仰向けに倒れた男は苦し気な呻き声を上げながら腹から血を流している。もうひとりの男が血まみれのナイフを右手に持っていた。どうやら言い争い挙句、思わず刺してしまったらしい。ナイフを持た男が驚きに満ちた表情で朔を見る。まさか近くに誰かいるとは考えていなかったのだろう。

「う……うわあああああああ!!」
「!」

 何を血迷ったか、ナイフを持った男は叫び声を上げながら朔の方に襲い掛かった。そのあんまりにも酷い形相に朔は思わず驚いたが、興奮した男の動きは単調でわかりやすい。朔の頭は比較的冷静に動いた。

 襲い掛かってくる男の、右手に突き出されたナイフを半身でひらりとよけながら、左手で男の右手首、右手で男の襟首をつかむ。
 男が進む力を利用して、男の右手をぐんとひっぱって態勢を崩す。
 襟首を持つ手に力を込めて身体を浮かせ、その勢いのまま男をぐるりと投げ飛ばした。

 一瞬の出来事に何が起こったのかもわかっていない様子のナイフ男は、受け身も取れずに背中をまともに打ち付けたらしい。鈍い音がして、そのまま気を失ってしまったようだ。投げ飛ばした拍子にすっぽ抜けたナイフを男からかなり離したところまで蹴り飛ばす。これでナイフ男の方は何とか大丈夫だろう。問題はこっちだ。

「おいあんた、大丈夫か?」

 腹から血を流す男に駆け寄り話しかけるが返事はない。先ほどまで苦し気な呻き声をあげていたが、今ではすっかり静かである。もしやと思い首筋に触れると、わずかだがまだ脈はあった。朔はほっと息をつき、止血に取り掛かる。
 ハンカチで男の傷口を抑え、両手で軽く体重をかけるように圧迫。怪我の応急処置なんて経験はないが、知識は辛うじて頭の片隅に引っかかっていた。

「頼むから、死なないでくれ」

 傷を抑えるハンカチが血で真っ赤に染まる。ナイフは男の腹に対してほぼ垂直に刺さったから傷口の広さは大したことはないが、深さはかなりの位置まで届いているだろう。中身の方に影響がなければいいが……そんなことを考えながら朔は男の傷口を抑える。

「こっちだ!」

 ふと耳に微かに聞こえたのは、遠くで聞こえる複数人のバタバタという足音と子供の声。少年だろうか。いや、声の感じからして、少女もいるな。手元は止血に集中しつつ、耳に意識を持たせる。足音は徐々にこちらに近づいてくるようだ。……この状況はあまり子供に見せたくない。足音はもうすぐそこまで迫っていた。

「そこに誰かいるのか?」
「!」
「もしいたら、誰でもいい、警察と救急車呼んでくれないか? 怪我人が居るんだ」

 あと一歩で子供たちと出くわす、というところで朔は大声を張り上げた。とたん足音が止まり、少年少女がこそこそと話し合う声が聞こえる。それを制するように「待ってろ」という冷静な少年の声がして、その声の持ち主らしき少年が朔の前に現れた。
 
 眼鏡をかけた賢そう印象を受ける小学生くらいの少年は、朔とその前に仰向けに倒れ腹から血を流した男を目に留めるとわずかに目を見開き、すぐさま朔に駆け寄る。少年が口を開くより先に朔が窘めるように言った。

「子供はあんまり見ないほうがいい」
「大丈夫、僕平気だから。それよりこの男の人は」
「……後ろで伸びてる男に刺されたんだ。そこに俺が出くわしたってわけ」
「なるほど……何か手伝おうか?」
「いや、大丈夫。それより早く警察と救急車を。後ろの男が目を覚ましたら困る」
「わかった」

 少年は静かに頷き、他の少年少女のもとへ走っていった。聞こえた声から察するに、ちゃんと警察と救急に電話してくれたらしい。数分後にパトカーと救急車が到着した。

 腹を刺された男はすぐさま病院へ搬送され、終始朔の後ろで伸びていたナイフ男も警官に連行されていった。第一発見者である朔は警官に二、三質問を受けただけで解放されたが、一応後日呼び出されるらしい。名前と電話番号を伝え、その場を後にする。

「お手柄だったね、お兄さん」

 ふと声を掛けられ、声のしたほうへ視線を下げると、先ほど駆け付けた眼鏡の少年が立っていた。それと顔は見なかったが、壁の向こうに居たのであろう少年少女達も。

「たまたまだよ。偶然現場に遭遇して、怪我人が居たから応急処置しただけ」
「それでもすごいよ! お兄さんすごい!」

 黒髪でカチューシャを付けた少女が目を輝かせて言った。それに続くようにそうだそうだと大柄な少年とそばかすの少年が朔をはやしたてた。

「そんなに言われるとなんか照れるなあ……」

 困ったように頬を赤らめる朔。するとカチューシャの少女がねえねえと話しかけた。

「お兄さんあんまり見たこと無いけど、この辺に住んでるの?」
「そうだよ、最近越してきたばっかりなんだ」
「そうなんだ! じゃあさ、歩美たちと途中まで一緒に帰らない?」
「い、一緒に?」

 急な展開に驚く。戸惑っている朔を置いてけぼりにして、少年少女三人はそれがいいと盛り上がっていた。

「えっと、逆にいいの? 俺と君たち初対面だけど」
「そんなこと気にしないもん! お兄さんいい人そうだし、仲良くなりたい!」
「じゃあ……お言葉に甘えて……」

 朔の尻すぼみな言葉を聞いて少年少女三人はぱっと顔を輝かせる。行こ、お兄さん! と元気いっぱいにカチューシャの少女は朔の手を引いた。

 子供たちに手を引かれ、夕焼けで赤く染まった帰り道を歩く。その間自己紹介をしたり、このメンバーで少年探偵団を結成しているのだという話を聞いたりした。

 話をしばらく聞いていると「お兄さんは何の仕事してるの」と話を振られ、ポアロでバイトを始めたことを言う。それを聞いた眼鏡の少年が「じゃあまた会えるかもね」と言った。気になって尋ねるとなんとこの少年、ポアロの上の階の毛利探偵事務所に住んでいるという。
 
 その言葉を聞いた瞬間思わず朔は「この子が死神小学生……」と声に出しそうになったのだが何とか堪えた。眼鏡の少年――コナンにちょっと不思議そうな目で見られたが、苦し紛れにごにょごにょと誤魔化しておく。

 そうこうしているうちに探偵団と朔の行き先が別れる道にたどり着いた。

「お兄さんまたね!」

 元気よくカチューシャの少女――歩美が後ろを振り返りながら手を振った。朔も笑って振り返す。

「若いなあ」

 少年少女の後姿を見送りながら朔は本心を零す。おそらくあんな時代があったんだろうが、朔自身は正直もう覚えていなかった。
 さて、次のバイトまであと少しだし、早めの夕食と風呂に入ろうと帰路に急いだ。

 ――そのせいで気が付かなかったのだ。

 探偵団の中にいた、知的そうな茶髪の少女。
 その数メートル後ろで優しく少女を見守るようにたたずむ、女性の浮遊霊の存在に。